死にたさと呆れ

メンヘラアスペ大学院生がゴミを書き捨てるところ

211002

眠るのが下手。睡眠欲の満たし方がわからぬ。眠りたいのになあ。

寝付く方法が最近わからないので眠くなるまでシャニマスしている。そうするともっとやりたいタイミングで急に眠くなるのでつくづく下手である。

平日は研究室に行っているので久しぶりにフリーの昼間になった。やりたいこともなかったので久々にFF14の利用権買って起動した。久々すぎて操作もおぼつかなかったのと疲れてしまって長くはできなかった。楽しくゲームしていたころが羨ましい。

死にたくなる頻度こそ減ったけど、生きていて楽しいと思うこともなくなってしまった。必要なこともできなかった頃から、必要なことだけはできるようになったという変化。鬱とうまくやっていくということは、社会に復帰できることなのか、人生を楽しめるようになることなのか。卒業して就職出来たらいいか、と思っていたけれど、このメンタルのままだったら正直、きついかもしれない。

6時まわるともう眠いのに日付回るまで眠れないんだなあ多分。この6時間が勿体なくて悲しい。昔は一番好きに遊んでたのになあ。土日も憂鬱で、平日も憂鬱で、もう悲しいね。

211001

昔の話を書き終わったのでこれからは日記を書こう。

鬱は残っているが精神的には比較的安定している。夜寝られないのが悩みだ。今日も2時間ほどで中途覚醒してしまって、そのあとは5時間くらい眠れただろうか。

昼は体のだるさと頭痛が最近気になる。いつものだと思って研究室に顔を出したものの、頭痛がひどくて1時間くらいで帰ってきた。どうせ眠れないので耐える。

煙草が高くなっていた。ピース600円を見て嘘だろと言いたくなってしまった。相変わらず1箱弱くらい吸っているけど、財布事情は厳しい。とはいえ向精神薬みたいなものなので簡単にはやめられないし、日本政府と名古屋市に課金を続けていく。

TGS2021の動画を見ている。とりあえず今日はスクエニアイマス生だけは見よう。スターリットシーズン買うかは要検討。

最近は涼しくて良い。長袖が辛くないのは素晴らしい。

僕とアスペルガー

僕は自分がいわゆるアスペルガー症候群、正確にいえばASDだと自覚している。が、診断されたわけではない。この辺の難しさについて、少し書いておく。

ASDは自閉スペクトラム、すなわち自閉症を代表とすれば、特有の症状を共通しながら、知能の遅れや言語発達が自閉症と診断されるラインから定型発達と変わらないレベルまで、広い病状を包括する概念で、だからこそspectre、分光された連続的な色の変化に喩えられているのだろう。と、理解している。専門ではないから調べた範囲でまとめれば、こうだ。

さて、特有の症状とはなにか。典型的には、社会性の欠如と、強いこだわりであって、これがASDを特徴づける中核症状で、かつ患者にとっての悩みどころである。

ここからは僕の解釈と実体験の話だから区別して読んでいただきたい。

社会性の欠如といえば、コミュ障という概念を連想する人もいるだろうが、コミュ障というのはもっと広い概念なので切り分けていきたい。

コミュ障を自称する人で、一番多いタイプは単に自分がコミュニケーションに慣れていないことを指してコミュ障と称しているに過ぎない。例えば、友人と話すのは慣れているが初対面の人とは話しづらい、年上の人間と話すのは疲れる、上司と話すのが難しい、とか。そもそも慣れていないことをするのはストレスなので、障害でも何でもなく正常な人であることが多い。

次に、コミュニケーション自体に苦手意識を持っている人。これは一種の障害と言えるだろうし、ASDも含まれると思う。親や同年代相手のコミュニケーションで失敗、トラウマ、ストレスを継続して経験すれば、だいたいどんな相手とのコミュニケーションでも苦手意識がつく。例えば、見た目を繰り返し蔑まれた経験。吃りでうまく話せず、何度も恥をかいた経験。僕の話をすれば、他人とコミュニケーションをとること自体がストレスだった。他人の無神経な発言を聞かなければいけないこと、自分の考えを話さなければいけないこと、相手が理解できるように話を展開させられないこと。これらは慣れることなく、物心ついてから10年近く、ずっと繰り返してきたことである。それが苦痛ならば、だんだん周囲とコミュニケーションをとることを避けて孤立するようになる。よほど親切な友人でもいない限り、どんな人でもそうなるだろう。僕の理解では、考え方や努力の問題ではなく、そのように生まれてしまったからにはどんな人がどんな工夫をしても大抵はそうなる。

具体的な話をすれば、僕の場合、会話がターン制になってしまいがちだ。話す番と聞く番がある程度あって、割り込まれるとペースを乱されたようで困ってしまう。が、こちらからは割り込みたくなってしまう。話す前に内容が決まっていないと話し出せなくて、しばらく考えてまとめてからでないといけない。会話中に黙り込んで考え出すので、人によっては奇妙に感じるようである。

話し出すと無軌道に話が飛びがちで、必要と思われる要素、結論を導くために必要な根拠、思考の順番と動線、それを全部含めるように話す癖があるので、聞く側としてはわかりづらいし、長い。適当な話をするのが苦手で、研究や部活など、目的のある会話の方がよほど楽である。寧ろ、何気ない会話こそ考えることが多い。自分と相手の関係性であるとか、相手の気分、何を話したいのか、自分以外と何を話していたのか。相手が不快にならないように、自分が不快にならないようにどうしても考えてしまうから結局何気なくもない会話になってしまう。成果もないし、ただ疲れる。そんな経験を連ねて、目的のない会話を避けるようになった。

次にこだわりについて書いていこう。

ASDの人に限らず、多かれ少なかれ誰もが持っている性質であって、要は強弱とそれによって周囲とズレてしまうかどうかが問題である。常識的に理解できる範囲なら、特質や場合によっては長所と判断される。幼少期であれば誰でも想像できる形態をとる。例えば、電車の細かい形式の違いとか、国名と国旗の組み合わせとか、分子の構造式とか、そういう規則的でバリエーションに富んだものに魅力を覚えて、新しいものを知って分類しようとする。僕も小さい頃はまさにこんな感じで、国旗・国名・首都の名前を覚えていたのは小学生の頃だっただろうか。今思い返すと、それぞれの国について思いを馳せるでもなく、単に国旗というフォーマットで表現させる多様さとそれぞれをidentifyする国名と首都という組み合わせに魅了されていた訳である。奇妙に思う人もいるかもしれないけど、アスペルガーというのはそういうものだ。高学年の頃には漢字を覚えるのに夢中になったこともあった。鬱や薔薇を覚えたくなる人は多いだろうからまだわかるんじゃないだろうか。漢字源を持ち歩いて書き順の多い方から書き取っていたものである。

中学時代は有機化学の構造式である。高校の化学便覧を持ち出して授業そっちのけでノートに構造式を書いていたことを思い出す。やはり最高なのはベンゼン環だった。配位によって規則的に名前が付いていくのも面白く、ベンゼン環の略記は邪道だったのでCとHのひとつづつを線で繋いでいくのである。ここでも、構造としての美しさが優先順位の一番であって、用途や性質はついでに覚えていく程度であった。周期表も面白くてちょっと長めの語呂合わせを覚えたりしてそらで上半分を書く練習をした記憶がある(スコッチ爆ロマン~斡旋ブローカー)。しかし、この頃には自分のそういった興味が他人と違うことを察していて、外に見せることを抑えるようになっていた。まだ話の通じる(といっても当時は今ほど市民権はなかった)ボカロやらニコ動の面白い動画やら、今でいうネットミームに染まっていた時代である。

高校で部活に入ったころからこだわりを適応させる術を覚えた。放送部では映像作品を作ったりアナウンス・朗読を上手くやることが必要である。であれば、自分の「うまくやりたい」「こだわりたい」ところを徹底的にこだわっても(納期が許せば)文句を言われることはない。実に楽しくて、大学でも同じようなことをやっていた(メディアからものづくりに現場は変わったけど本質的には似ていた)。

大学に入学したころには自分がどういう存在であるか、なんとなく理解(誤解)していた。早熟なところがあって、他人より完成度にこだわり続けて集中することができる。一方、頭を使うことは同年代より得意な分、友達付き合いを避けるから交友関係は狭い。自信家に見えるかもしれないが、偽らざる自己評価であった。論理が破綻しているわけでもないし、部活動や大学受験で周りと比べた時に矛盾するでもなかった。小さな失敗や挫折はあったものの、部活動の大会や受験といった節目では大失敗をすることはなかった。自分の中でも自分が大きな挫折を経験したことがないことは危うく思っていて、わざと大学受験は中部地方で(医学部を除けば)一番偏差値の高いところに設定して挫折ポイントにしてやった。結局、半年の受験勉強でアッサリ第一志望に入れてしまって、自己評価を更新するチャンスを逃してしまった。

自分がASDでないかと疑念を持った時はかなりの衝撃を受けた。寧ろ今まで疑わなかったのが不思議なくらいピッタリと症状が合っているのである。そしてASDの難点はまず治らないところにある。ADHDなどとは違って薬があるわけではない。確定診断が出たところで精々行動療法、要は行動を変える努力をするわけで、正直ちゃんと考える能力のある成人にとって確定診断を出す意味は見いだせない。さらに、成人の発達障害は往々にしてそれまでの適応によって典型的な症状からは形を変えているから、診断を出すには保護者から幼少期の話を聞く必要がある。患者として、あなたの息子が発達障害かもしれんから医者の前でちょっと喋ってくれんかと、言えるだろうか? しかもわかったところでなんの得もない。精々SNSのbioに確定診断ですと謎に誇らしく書けるぐらいである。僕は両親に発達障害について何も言っていないし、これからも言えないと思う。生まれながらのものである以上、責任を無駄に感じさせるのはわかっている。そんな選択はどう考えても僕にはとれない。

さて、自分が発達障害ではないかと疑念を抱いたとき、それを否定するような感情は浮かんでこなかった。納得してしまったのである。今までの自分に対する違和感、他人と違う理由、そして何より、友人を作らない選択をしているという建前で友人を作れないことを隠しているという葛藤や疑問のようなものに対する解答としてこれ以上ないものであった。自分がアスペルガーだということは理解した。が、これを受け入れられるかどうかは別問題であった。

他人と違うのは特質や長所と呼ばれるものではなくて障害と症状であること、そして交友関係が狭いのは選択の結果ではなくそうすることしかできないという救いのない結論。何よりそう信じてきた今までの自分が間違っていたという虚無感。追い打ちをかけたのは、これが他人から見ればそれほど重大な問題だと思えないであろうことだった。症状であったとしても特質や長所として生かせるだろうと、間違っていたとしても別に何も変わらないだろうと、そして多かれ少なかれ誰でも持っている問題だろうと、実際に相談すると2/3の人がこう答えた。なんの救いにもならない。というより、何を悩んでいるのか、当事者でないと理解できないのかもしれない。Identityが否定されて白紙に戻されたような感覚、いずれ普通にできるようになるだろうと高を括っていた違和感が一生治らずにうまく付き合っていかなければいけないと宣告された絶望感。近しい人にこそ打ち明けられないし、打ち明けたところで何も改善しないという希望のなさ。言葉にするのは難しいが、当時はその思考で頭の中は一杯になった。そして今でも、解決されないまま頭の中に刺さっているような感覚がある。折に触れて痛むのである。

頭では、悩む必要はないと理解している。悪いことばかりではないと理解している。事実は事実で、多分治らないのも事実で、だんだん適応していくのも事実で、僕に他人より優れている部分があるとすればそれはこの障害のおかげだというのも、多分事実だ。しかし、困ったことに事実に救いはない。自分の中に救いはない。結局、他者から肯定されて、そのままでいいと確信をもって言われることでしか救いはないのだろうし、それがわかっているからこそ、この他人と距離を詰められない自分にとってその救いがどれほど得難いことなのかもわかってしまう。カウンセリングに救いはない。自分の考えについて話して聞いてもらうことは確かに良いことだとわかったけれど、結局この問題を受け入れる助けにはならなかった。カウンセラーは仕事である。ドクターも仕事だ。申し訳ないけどそれ以上であると感じられることはないし、申し訳なさと悲しみだけが積もっていく。

自分は理性で動く人間だと思っていたけど、結局感情が人間を動かす。それに気づけたのは大きな収穫だったのかもしれない。社会の弱い側へのまなざしを獲得したことも、また収穫だ。悪いことばかりではないというより、本当は悪いことなんてないというのは理解している。だからこそ、受け入れるのが難しいというだけでこれほど悩むのに驚きがある。いつか良かったと思える日が来るのか、その日まで生きていられるのか、疑問である。

昔の話7

鬱の話。現在に至るまでいけるはず。

 

今年の4月から、大学に行くようになった。とはいえ授業は全部オンラインだったので研究室に行くばかり。昼過ぎに行って、18時には絶対に帰る。粘りがちな性格が災いすることがわかっていたので負荷が増えないように自分の中でルールを決めた。おかげで研究の進捗はぼちぼち、授業もめんどくさそうなやつ以外はわりとちゃんと追っていた。

一ヶ月半ほど過ぎた5月半ば、思わぬ障害が現れた。もう完全に手を離したと思っていた部活が人手不足で大変なことになっていた。手伝うべきか、自分の体調を優先するべきか。介入すれば昼も夜もなく締切まで2週間きっちり働かされることはわかっていた。授業はともかく研究をやる暇はない。さらに悪いことに、その状況をなんとかできるのが経験量からいって僕を含めて2人しかいなかった。それも、2人でフル稼働すればなんとかなるかもしれない、ぐらいの作業量。結局、やる以外の選択肢はなかったわけだ。

現役時代には慣れていた負荷も、鬱というハンデを負った状態では厳しかった。1日24時間のうち作業しない時間は5-6時間に抑える睡眠時間と風呂ぐらい。ひたすらパソコンと向き合う作業で、溢れそうなタスクに優先順位をつけて延々と処理する。眠剤は昼間に眠気が出るので使えなかったから、結局取り戻しかけていた昼夜のリズムは崩れていく。どちらにせよ、他の部員が昼間にやったもののチェックを深夜にやらなければいけなかったから日が上っている間に寝ることが多くなる。生活リズムの乱れは精神に直撃する。後でどんなしっぺ返しが来るかは考えないことにして、目の前の作業を終わらせなければいけなかった。1日が曖昧になるので抗鬱を飲むタイミングを逃しがちになり、離脱症状でだるい体と躁気味のメンタルで締切までなんとかやるしかなかった。最後は二徹でなんとか形になってフィニッシュ。普段のやり切った達成感も解放感もなく、最悪の体調と精神をなんとかする戦いが始まるというだけの終わりになった。

全てが狂った。生活リズムは乱れ、抗鬱を切らしたりしたせいで体調もメンタルもボロボロだった。研究室にも行けなくなり、授業も放置しがちになった。何より、だんだん楽しめるようになったゲームもまたできなくなってしまった。1年かけて回復させた全てが2週間で逆戻りした。もう何も考えたくなくなった。結局、義務感で自分がダメになることがわかっていながら手を入れたのだから、自分の責任以外の何でもなかった。こういう時、自分のために何かしてくれた人たち、ドクターに、両親に、話を聞いてくれた友人に、申し訳なくて自分が生きている理由を見失う。鬱から回復するための努力を、何もしていないということなのだから、そんな状態で他人には助けてもらおうとは、虫が良すぎるのである。金を食って未来もなくただ生きているだけの存在である間、死にたいというより、生きたいと思う理由がない。

学校のカウンセリングに行くようになった。以前クリニックでカウンセリングを受けたこともあるが、30分で3000円とかとられるので現状説明だけで諭吉は課金する必要があった。そんな金はないので諦めていたのだが、大学ではタダでカウンセリングをしてくれると鬱になってから2年も知らなかったのである。とはいえ、あまり期待はしていなかった。自分の問題はわかっているし、どうするべきなのかもわかっていて、わかっているけどできないから苦しんでいるのだ。自分の話をしたら、同じように苦しませるだけで、流石に少し後ろめたかったのである。それを差し引いても、人と話すことに飢えていたのだった。

カウンセリングは良い意味でも悪い意味でも大体予想の範囲内だった。やはり自分の病状について喋るのは大事だし、別に何の解決にもならないことも予想通りだった。週一で10回ぐらいカウンセリングしてもらった時、話を聞いてるとしんどくなってくる、という話をされてそこまで予想通りになってしまったかと悲しくなった。

8月ごろだったか、部活のチームリーダーをやっている後輩に、鬱になったと相談を受けた。

彼にはある程度配慮をしてもらいたかったので一年くらい前に僕が鬱なことを言っていたのだが、どうもそれのお陰で言いやすかったのか。何はともあれ、チーム内でそれを知ったのは僕だけだった。正直、他の人に言って欲しかった。が、それがいかに大変かは身をもって知っているし、彼にとって必要な支援がどのようなものかも理解していた。そして、それを彼に負担をかけずにやっていけるのが自分しかいないことも理解していた。結局、僕の良心の問題で……。

僕は自分が正しいと思うことに拘る癖がある。これは決して良いことではなくて、譲れないところで対立すると泥沼化するし、多少の理不尽には目を瞑らないとやっていけないのは理解しているんだけど、それでも間違っていると思うことにどうしても従えない。それでバイトも人間関係もうまくいかなくなってしまう。

ただ、今回は彼をこれ以上悪くしてはいけないという確信めいたものを持って……決して間違いではないと思う、が、酷い鬱、多分彼よりも悪い状態の自分がやるべきことではないというのも理解していた。それでも、彼を放置するという選択はできなかった。

彼を部活から遠ざけるのが先決だった。しかし、彼は任期の途中でリーダーを交代するという形をとりたくない、と言った。確かにそう思うのも無理はなく、何を言われるか気が気ではないだろう。となれば、彼の仕事は信頼できる上級生に事情を説明した上でやってもらって、それを把握する、本来のリーダーの役割は僕がやるしかなかった。週一で最低限の報告をあげて下級生にとっては彼がリーダーであるように見えるようにする。かつ、彼はできるだけ部活から離れる必要があった。彼は半年近くまともにリーダー業をできてなかったわけで、放置されていた渉外案件と傾いたチーム体制を立て直すのに奔走することになった。昼は作業場の監督と手伝い、顧問の先生と話し合い、夜はチーム体制変更の資料作り、鬱病患者にはまあまあしんどい仕事量だった。また鬱がぶり返す予感を覚えながら、ひたすらタスクをこなしていった。

9月。チームの代替わりの月、次期幹部メンバー決定でおおむね仕事は終わった。そこまで大変だったかというと大した負荷ではなかったのだが、いかんせん鬱が悪くなった時に喰らったのは大きかった。リーダー業をあらかた引き継いだ後、とてつもない無気力感に襲われて植物の如く家から出なくなった。一時期回復していた食事の量も減り、ゲームもできず、煙草の煙だけを肺に入れる毎日。久しぶりに、通院できなくなった。薬を切らして、離脱症状でさらに苦しむ。吐気。不眠。頭はぼうっとして、ぼんやりと死にたい気持ちだけが浮かんではそれもぼやけていく。最悪の体調は一週間ほどで落ち着いた。

思ってみれば、抗鬱は同じものを一年以上飲んでいて、久しぶりの生身の感覚だった。眠気はない。精神も、穴にはまったように落ち込んで抜け出せなくなることがあるものの、別に飲んでいた時より悪くもなっていない。何より、悪夢を見なくなった。倦怠感はあるものの、眠ることが嫌ではなくなったのは大きい。寝つきの悪さと朝早く起きすぎること以外は、薬を飲んでいた時よりはっきり悪くなったと言えることはあまりなかった。正直、今まで安くない金を払ってどうしても必要ではない薬を飲んで、怠く落ち込んでいたということが、虚しく思えた。薬がどれだけ効いているのか疑問に思った時もあったし、勝手に断薬したのも初めてではなかったけど、その時の最悪な経験から良くなるまではちゃんと続けようと思って……。薬を減らすのは患者にとっても医師にとっても難しい判断だろうし、怖い。辛い。しかも、薬が抜けて離脱も終わったのに、また飲み始めのしんどさを感じる気力もない。それから、クリニックには行かなくなった。こう云うことを言うと、自己判断で勝手な行為だと、最善の行動ではないと思うだろうし、自分でもそれはわかっているわけで。しかしこの閉塞感を、遅れていく不安を、止まっている辛さを、わかってくれる人もいないのである。自分の責任で、自分の面倒を見ないといけないわけで。他人にとやかく言われる筋合いは、ないと思った。

薬を飲まなくなって、放置して良くなる見込みは無くなった。逆にいえば、これ以上休む必要も無くなったわけで、迷っていた後期の休学はしないことにした。研究室に行って。単位をとって。就活して。来年には卒業する。これから鬱がどう言う経過を辿るかはわからないけど、とりあえず自分のバイタリティを信じてやる。久しぶりに研究室に顔を出して、研究の続きをやった。明日からは後期の授業が始まる。できるかはわからないけど、やっていく。もう、その道しかなくなってしまった。

 

そして現在に至った。昔の話は備忘のためで、他人に見せられるような文章では書いていないので、このまま流れていくに任せよう。もっと短く、まだ人が読んで身になる話を書いていく。昔の記憶は、ここに書き捨てて、忘れられたらいいな。

昔の話6

鬱の話。M1時代。

 

大学院1年の年ははっきり言って地獄だった。何をするにもコロナ。人と会えず、外に出られず、イベントはなくなる。抜け殻のように横になる日々。オンラインになった授業は、そもそも履修登録していなかった。

休学の決断が遅かった。休学届の締切は2月末。その頃は3月まるまる一月休めばマシになるんじゃないかという薄い希望を持っていた。が、鬱はそんなに優しくなかった。無為に休むのはただ自分を追い詰めるだけで、病状は悪化していった。昼間は頭に靄がかかったように思考できず、眠気がひどくてまどろみとニコチンの補給を繰り返す。5-6時間くらいで頭はクリアになっていって、相変わらず身体はだるくて結局横になる。下らないことばかり考える。これからのこと。発達障害のこと。自分の価値。苦しみから逃れる方法。結局、全てが「死にたい」というピュアな逃げに収束する。苦しみと不安から解放される手段。実行した瞬間に確実に効果を発揮する手段。死は、特効薬であり救いであり。追い詰められた結果の唯一の権利であり。だが、結局理性はそれを許さなかった。これからの可能性が失われる恐怖。周りの人間に与える痛み。それを握りつぶして死ねるほど、僕は強くなかった。結局、逃げることからも逃げたのだ。

僕の理性が恐れていたのは、うっかり自分が死んでしまうことだった。これは、この時飲んでいた睡眠薬があまり合わなくて健忘や異常行動が出ることがあったのが大きい。飲んでから寝るまでの1時間くらい、自制心が外れる上にたまに記憶が飛ぶことがあって、家の前の車道で撥ねられようとしたり、日本酒の四合瓶を一気に飲んで盛大にゲロ吐いたり、ベランダの手すりに座って落ちたい衝動と戦ったり、半袖を着れなくなるからと自制していた手首を切っていたり、顔や首を切って布団が血だらけになっていたり、もう散々だったのである。幸い大ごとにはならなかったが、このとき予想外のことがもう一つ起こった。知らないうちに両親に鬱で通院しているとカミングアウトしていたのである。朝起きたら意味不明な返信を見て夢かと思ったのだが、いずれ言わなければいけないことなので鬱のことは説明した。発達障害の話は出さなかった寝る前の自分には感謝である。既に6月、全く大学に行っていなくて学費が余分にかかる話をした。本当に、無駄なことをした。

救いを求めていた。人と会わないことが鬱になった直接の原因だとわかっていたので、人と会って、話したかった。コロナは最悪の巡り合わせだった。大学も行っていない間、話す相手といえば二週に一回の診察で話すドクターぐらいで、久しぶりに口を開くものだから、まともに話せない時すらあった。流石に凄い勢いでメンタルが落下していくので、縋る思いでとある高校生の頃の友人に連絡した。社会人一年目で忙しかったであろうに、僕のくだらない話に付き合ってくれた。あまりにも大変そうなものだから遠慮して会う頻度は数ヶ月に一度くらいのものだったけど、定期的に人と話せて、たまに会えるというのは限りない救いだった。お互いカラオケが好きだったし、僕は彼女が歌うのを聴くのが好きだった。曲の守備範囲が近いし、歌が不思議なくらいうまかった。久しぶりに会った日、カラオケの後、ドトールで少し話すつもりだった。話し始めたら流れ出すように弱音を吐き続けてしまって、気づいたらアイスコーヒーの氷は全部溶けて、僕は半泣きになっていた。彼女はずっと聞くだけで、否定も肯定もしなかった。話すのを躊躇っていたアスペルガーの話もした。やはり、否定も肯定もせず、僕のいうことをただ黙って聞いていてくれた。それは間違いなく無上の救いで、会話はキャッチボールだと言うけれど、投げ返されても受け取る元気がない時は、受け止めてもらえるだけで幸せだと知った。今まで意識して人に見せなかった弱い部分を、止めどなく曝け出した僕を彼女はどう思っただろうか。何を思っていたにせよ、表に出さないというのは素直にできるものではないだろう。掛け値なく、彼女の存在は生きる支えになっていた。

彼女は、高校生の頃に入っていた部活動の、数少ない同期の一人だった。控え目だけど察しのいい子で、部活動をやっていく上で隠していこうと決めていた恋人との関係を割と早いうちに看破られていた。それでも干渉も非難もせず、それまで通りに接してくれて、部活動という極めて小さなコミュニティを壊さないでいてくれた。それもまた、僕にとっては大きな救いだった。恋人と同じくらい、その関係は僕にとって大切だったのだ。僕は、自分に対する義務として大切にしていた恋人より、彼女の方によほど惹かれていた。恋人と情緒不安定な関係を続ける中で、彼女は間違いなく僕の救いになっていた。不誠実と謗られるかもしれないが、自分の中で割り切りはできていた。たとえ僕の好きな人が誰であっても、恋人とずっと一緒にいて、幸せにすることは決定事項だったのだ。

このころ、FF14をはじめた。ゲームすら出来なかった頃に比べたらマシになったといえるのかもしれないが、良くなっているという実感は薄かった。ゲームを止めれば求めていない思考が頭を支配し始めるから、起きてから眠さの限界になるまで止めない。今更ではあったが、生活リズムは崩壊していた。眠るために止めるのではなく、眠くなった時に止めるのだから、毎日起きる時間帯が変わっていく。追われるように日々を過ごして、ぼんやりする時間を作らないことで自衛する。究極に落ち込む頻度は減った記憶があるが、精神はだんだん擦り切れていくようだった。楽しくてやってるのか、よくわからなかった。それでも一種の救いになっていたのは間違いないだろう。一ヶ月200時間くらいのペースでプレイ時間だけ積み重なっていって、楽しさと虚しさを感じながらプレイしていたと思う。

気紛れにピアスを開けた。何故かと問われれば難しいが……。何もしない日々は閉塞感に満ちていて、どうしようもない自分に価値が見出せなくて、せめて自分を少しでも好きになれるようにしたい、というところが根っこの動機だっただろうか。一個開けたら次も開けたくなって、結局片耳10個ずつぐらい穴自体は開けた(あまり気に入らなくて閉じたのもある)。自傷の代償行為のように思えなくもないのに、そうとは捉えられないのが面白かった。自分を飾り立てるようで楽しい。ずっと自分の顔面も見た目も中身も好きではなかったが、少なくとも外見だけは好きなように弄っていけばいいのだと気付いた。バイトは男はピアス禁止という時代錯誤なルールがあったので辞めた。だらだらしていても金が出るいいバイトだったが客を含めてストレスにしかならなかったので清々した。バイトを辞めてからは髪も染められるようになったので、紫にしたり、ピンクにしたり。奇異の目で見られるのはわかっていたし、どうでもよかった。似合う似合わない以前に、自分が好きな格好をすればいいのだ。相変わらず死にたい気持ちは頻繁に頭の中に滑り込んで来たが、自分なりに自分を認めてやることは鬱に対して悪いことではなかったはずだ。

一年をかけて、大きく見れば回復傾向にあったはずである。後期は休学して、大学に行っていない期間は丸一年。想像以上に長く、しかし、終わってみると何の記憶もない、不思議な一年になった。死にたい気持ちは、自分を認められない気持ちは、何とか抑える術を覚えたようだった。4月から大学に戻ることにした。一年遅れは、色々な面で自分の許容範囲上限いっぱいだった。1年ぶりに人間の生活に戻らなければいけない。僕はまだ鬱を克服したわけではなかったし、発達障害の件もなにも解決していないけど、復学して人間らしく授業を受けて研究をする元気はあると感じていた。指導教員も理解のある人だったのでかなり慎重に扱ってくれた。鬱から抜け出す道筋が見えたようであった。

otakev.hatenablog.com

昔の話5

鬱の話。卒論時期とか。

 

昼と夜が曖昧になる。やらなければいけないこと、やりたいこと、やりたくないこと、全て融けて全部できなくなる。したいことも感じられず、無為にベッドで時間を溶かす。自分のためにすることは、量と頻度が減っていく食事を摂ること。たまに風呂に入って身体の不快感をなくすこと。全力を出して服を洗濯すること。食事が減った代わりに煙草の量は増えていった。それでも、虚無と不安は消えなかった。某レンタルビデオ店でバイトをしていたのだけれど、ミスをしてもしなくても、ただ虚無感だけが大きくなっていった。バイト中の自分の、まだ他人に見せられる顔をしている自分を、虚ろに眺めているような感情で、週3のシフトをこなしていた。体調は悪くなる方向にしか進まなくて、バイトの時間に起きて、帰ってきたら疲れ切ってベッドに潜って。疲れてなにもできないはずなのに意識だけは起きていて、次のバイトまでリズムを崩したくないのに、無駄に目を覚まして辛くなっていた。このころ、終わっていく感情を煙草だけでは誤魔化しきれなくなっていた。初めて肌をカッターナイフで切った。暑がりで秋ごろまでずっと半袖だから、二の腕の上の方、いわゆるアムカ、アームカットだった。煙草にも似て、自傷にも依存性と耐性がある。最初のうちは切り開いた一筋のじくじくした痛みと、白い組織から滲み出てくる血液を見ているだけで少し落ち着きを取り戻せた。すぐに本数と頻度は増えた。半袖で隠れる範囲はすぐに傷でいっぱいになった。一息に何本も切って、痛みで思考を抑えないと、気が狂いそうなほど苦しかった。カッターナイフと煙草で自分を傷つけている時は、自分が自分であるように感じることができた。自分はまだ生きていると、まだ生きる意思があると、死にたい自分に反駁するように、繰り返した。そうでないと思考を保てない自分が悲しくなって、認められなくなって、また傷を増やした。

卒論の締切は2月頭だった。それまでに出さなければいけない進捗、実験の準備、バイト、まだ顔を出さなければいけなかった部活、全部、どこか現実感がなくて夢の中のようだった。家に帰って、不安と恐怖と、よくわからない負の感情と、死にたさと、ないまぜに感じている時間が一番逃れようのない現実だった。だんだん、昼間研究室にいる自分と夜中の鬱病患者の自分が乖離していった。先のことを考えることなんてできなくて、ただその日にやらなければいけないことを何も考えずに進めて、卒業だけはしなければいけなかった。卒業できなかったら、あれだけ苦しんで合格した院試をもう一度受ける羽目になる。進むのも地獄なら、立ち止まるのも地獄だった。マリオネットのように、見えない何かに体を動かされて、夜は糸が切れたように気持ちを沈ませていた。

この期に及んで、鬱と診断されて通院していることはほとんど誰にも相談していなかった。数少ない、自分が比較的気を許せる三、四人の同い年の友人だけに、吐き出すように伝えただけだった。アスペルガーじゃないか、自分を疑っていることまで言ったのはさらに少なくて、この頃は二人。二人ともに、同じ反応をされた。曰く「誰にでも多少は当てはまる部分があるんしゃないか」と。結局、自分が受け入れ難いことは他人でも受け入れ難いのだと知って、更に落ち込んだ。あまりにも落ち込んでしまって、逆になぜこの返答が自分をこんなにも傷つけたのか考えた。僕は、自分が発達障害とともに生まれたことを受け入れるしかなく、それが治らないことも受け入れる必要があった。これは最初からわかっていたことである。その助けになるだろうかという気紛れで話した結果、前提に疑問を呈されると、混乱するし他人にこの苦痛はわからないということを突きつけられるようで苦しくなる。励ましのつもりでかけられたのか、少なくとも悪気があって言われたことでないのが、消化不良を起こす原因でもあったのだと思う。このような言葉を返される原因の一つは、もう二十歳を過ぎてある程度適応しているために、周りから見たときそこまで典型的な症状に見えないということだと思われる。僕の場合、社会性の欠如は薄っぺらい会話をする技術を身につけることで、こだわりは周囲から見て理解できる範囲しか口に出さないことで、奇妙に思われることを回避するようになっていたと思う。そこまですれば、寡黙で凝り性でオタクっぽい陰キャぐらいに見えていたはずで、これは高校に上がる前には大体完成していたのでそうなるのは必然でもある。ただ、そう振る舞うことはいつまでも苦痛で、特に不要な人間関係を維持するのはかなりの負担だった。それは他人に理解できるものではないだろうから、しょうがないのであった。

両親には鬱で通院していることも何も伝えていなかった。責められることはないだろうが、あなたの息子が発達障害て鬱ですよ、と告げるのはなかなか辛いことである。が、大学の学費は有難いことに全額出してもらっているので、ストレートで卒業できない事態になったら伝えよう、とだけ決めた。幸い院試は通っている。卒論もとりあえず出せば卒業はできるのだから、目下のところはコツコツ卒業研究さえやれれば問題はなかった。

今となっては卒業研究の記憶はあまりない。というか、そもそも物覚えが悪く思い出を忘れていく方なのだが、鬱になってからは顕著で、研究をした記憶も鬱に苦しんだ記憶もほとんど記憶にない。Twitterで気持ちを吐き出すために作ったアカウントの過去ログだけに苦しんだ記録が残っていて、本当に惨憺たる状態だったようである。一つ覚えているのは、別れた恋人が僕の誕生日にコンビニスイーツを買って家に来てくれたこと。絶不調だった僕は明らかにおかしくて、上の空の返事、せっかく買ってきてくれたスイーツも食欲のない口にゆっくりゆっくり運んで、流石におかしいと思ったのであろう彼女にどうしたのか問い詰められたけど、全く思考も働かず言葉の整理をしようとする間に、彼女は痺れを切らせて怒って帰ってしまった。もはやどちらが悪い悪くないという話ではないけど、両方にとって最悪の結果であることは確かだった。彼女は結論を急ぐ癖と全てを知ろうとする癖があるので、それも災いした。僕はそれ以降、人に相談するのが少し怖くなってしまった。

年末年始にかけて病状は最悪だった。天邪鬼的なのだが、世の中が明るくなると僕は落ち込んでしまっていたのでイベントごとのある時期は最悪だった。帰省して、家族と話す。心構えはあったし、ボロを出さないよう三泊くらいで帰ったのもあって、精神が参っていることは悟られずに済んだ。それでも疲労は誤魔化せないくらい溜まってしまった。3週間、研究に手がつけられなかった。

結局卒論の半分くらいを三日で書き上げることになった。ほとんど寝なかったのでハイな状態で何とか済ませたが、お釣りは大きかった。卒論発表は散々だった。スライドの体裁を整える余裕はなく、完全に昼夜逆転していたので朝9時に会場に行くには徹夜するしかなかった。鬱で働かない頭で、質疑も滅茶苦茶だったはずだ。しかし、卒業は、できた。

この頃はコロナのニュースが聞こえ始めた頃で、発表するはずだった3月の学会は中止になった。ただ休みたかった僕にとってはありがたかった。精魂尽き果てて、脳を休める時間を欲していた。だが、ゆっくり休めるという期待とは裏腹に、家でひとり横になる時間は、最悪だったはずの精神をさらに蝕むことになっていった。

otakev.hatenablog.com

昔の話4

鬱になった経緯。院試が終わったところから。

 

僕の学部では内部生は面接が終わった時点で合否を知ることができた。第一希望の専攻に合格はしたものの、院試免除が凸ってきた関係で大学院では別の研究室に行くことになった。そもそも大体どんな分野でもやっていく気はあったので興味はなかった。寧ろ、この状態でまた周りの人間が変わるのが少し憂鬱だった。

院試が終わるのが8月末。9月末には外部での研究発表があった。大した結果でなくてもとりあえず見せられるものを作って持っていかなければならない。研究室の陽気な雰囲気に嫌気がさしていた僕は、結局自宅で気が向いた時に研究を進める生活に落ち着いた(シミュレーション系だったので家でやれたのである)。精神は相変わらず不安定だったが、薬のおかげもあって、崩壊していた生活リズムを戻すことができた。研究は順調には進められなかった。いかんせんかけられる時間が少なすぎた。1日のうちに何かできる時間は4時間から6時間ぐらいが限界だった。朝から落ち込む日は最悪だった。食欲もなく、芋虫のようにベッドに横になるしかなくて、夜は夜で不安と悲しさがいくらでも湧き上がってきて死にたくなる。孤独だった。

このままではやっていけないのは自覚していたので、抗鬱を出してもらうことになった。最初のドクターは少し苦手でわざといない日に顔を出した。まだ話しやすいドクターが担当になり、抗鬱の説明をしてくれた。薬だけで劇的に良くなるわけではないと理解していたが、直接医師に言われるとなんともやるせなさを感じる。結局ストレスの原因を取り除かなくては改善の見込みは薄い。だが、その原因は孤独と自己肯定感のなさにあった。そのどちらもが治りはしないアスペルガーから出発しているとすれば、良くなる見込みはそれほどないと理解した。

抗鬱の飲み始めはしんどかった。確か最初に飲んだのはレメロンで、吐気と眠気が一日中続いた。進捗はさらに出なくなった。楽になるために飲んでいるはずの薬に苦しめられるのはお笑いだが、我慢して飲んでいくしか選択肢はない。少し元気でパソコンに向かう時間以外はひたすらベッドで耐える時間だった。そういう時、無駄に色々なことを考えてしまう。自分のこと。アスペルガーのこと。人間として欠陥があって、楽に生きていくことができない。友人を作れず、恋人を失って、孤独なままいつまで耐えなければいけない? 毎晩のように、この苦しみから解放される手段として、一つの救いであり慈悲として、死にたいという気持ちと付き合っていかなければいけなかった。このころ、よく使われる比喩だが、出口の見えないトンネルにいるという感覚を覚えるようになった。孤独で、そこにいるだけで辛いトンネルである。

研究は思うように進まない。発表スライドなんて手をつける余裕はなかった。二日前に作り始めて、前日は前乗り移動日で。苦手な人間と観光して、夜は飲み会になってしまった。さっさとホテルに戻ってスライド作らないといけなかった。当然酒を飲むつもりはなかった。が、陽気な人間と飲み会をするということがどういう意味かわかっていなかった。

特に安くも旨そうでもない居酒屋に入る。人数が多くない研究Grなので一つのテーブルを囲むことになる。特に上の人間は陽気で苦手なタイプだった。そいつらが喋る。聞き流せばよい。が、とあるM1が自信満々に話し始めたことを何故か聞き流せなかった。

その夏のインターンの話だった。男の多い分野なので、インターンに来た女の子は注目されるし、あわよくばセックスまで持ち込みたいという男がごまんといる。御多分に洩れず、かわいい女の子が一人ぐらいはいたらしい。飲み会でその子の隣の席をゲットしたらしいそいつがTwitterのアカウントを盗み見て男たちで共有したそうだ。なんとも間の悪いことに、所謂裏垢女子のアカウントを発見したようで、インターン最終日の打ち上げで顔と学歴が一番良さそうな奴をぶつけてラブホに連れて行かせようとしたのだそうだ。結局邪魔が入ってお持ち帰りには至らなかったそうだが、実に楽しそうに話してくれた。

笑えなかった。何を面白いと思って話しているのか……何が面白いと思って笑っているのか、まるでわからず。にしても、聞き流せばよかった。そうできなかったのは多分自分の精神が弱っている時だったからで、随分とその女の子に感情移入してしまった。その話を聞いただけで何かわかった気になるのは至極失礼な話だけど、裏垢でセックスの相手を探すようになったきっかけはなんだったんだろうと。寂しくて誰かと会っていないと辛いんだろうか。身体だけの関係でないとしんどいんだろうか。もしかするとだいぶ精神を病んでるのだろうか。そんなことを考えさせられて、落ち込んで、その考えから逃げるために生中を飲み下した。なんで飲み会の場でまでこんな飲み方をしなければいけないのか、悲しくはなったが唯一の逃避の手段だった。その場は1時間ほど続いてようやく解放された。別に奢られるわけでもなかった。人生で最悪の飲み会だった。

本当の戦いはここからだった。酒にはあまり強くないので、寝てしまわないようにコーヒーをがぶ飲みしてホテルに戻ってスライドの続きを作らなければいけなかった。時間は既に21時を回っていただろうか。出発は8時とかだったから、12時間もない時間で、20分の発表スライドの半分と前刷りを作らなければいけなかった。素面ならできる気がしていたが、酒が入った上に気分は最悪だった。進捗は出なかった。頭の中ではあの裏垢女子がぐるぐるしていた。ホテルに粘るのを諦めて外の空気を吸いにいった。コンビニに行って煙草とコーヒーを買って。その頃吸っていたのはセブンスターだった。気持ちが落ち着くまでエハラミオリの「イド」を聴きながら延々とコンビニの前にセブンスターを吸い続けた。半箱ほど立て続けに吸って、ようやく頭がクリアになって。ホテルに戻ってパソコンと格闘して、結局8時前に前刷りまで作り終えて。コンビニで10部刷ってまたコーヒーを飲んで、眠くなるからと飲まなかった抗鬱をやっと飲んで、救ってくれたセブンスターをまた吸った。午前で発表は終わった。その後は飯と施設見学があったらしい。それ以上人間と会いたくなかったので体調不良と嘘を吐いて電車で帰る。3時間で帰れた。最悪の気分で家に帰るまでの3時間は長かった。煙草も吸えないのだ。眠りに落ちるのは摂りすぎたカフェインが許してくれなかった。自分が本当に楽にやっていけない身体になったのを自覚して絶望する。家に帰って眠る。数日経てばまた研究の続きである。卒論を書くまでには実験もある。もはや何のために何をやっているのか、何もわからなかった。ただ死なないことに必死で、自分がどうしようもないことを悟られないことに必死で。不安と絶望に押し潰されそうになるのを薄い布団をかぶって耐えていた。出口の見えないトンネルで蹲っているような日々だった。

案の定、この発表を境に研究は進まなくなった。昼過ぎに起き出しては煙草を吸って飯を食ってまた寝るだけの日々。生きていく理由は日に日にわからなくなっていった。

 

otakev.hatenablog.com