死にたさと呆れ

メンヘラアスペ大学院生がゴミを書き捨てるところ

昔の話5

鬱の話。卒論時期とか。

 

昼と夜が曖昧になる。やらなければいけないこと、やりたいこと、やりたくないこと、全て融けて全部できなくなる。したいことも感じられず、無為にベッドで時間を溶かす。自分のためにすることは、量と頻度が減っていく食事を摂ること。たまに風呂に入って身体の不快感をなくすこと。全力を出して服を洗濯すること。食事が減った代わりに煙草の量は増えていった。それでも、虚無と不安は消えなかった。某レンタルビデオ店でバイトをしていたのだけれど、ミスをしてもしなくても、ただ虚無感だけが大きくなっていった。バイト中の自分の、まだ他人に見せられる顔をしている自分を、虚ろに眺めているような感情で、週3のシフトをこなしていた。体調は悪くなる方向にしか進まなくて、バイトの時間に起きて、帰ってきたら疲れ切ってベッドに潜って。疲れてなにもできないはずなのに意識だけは起きていて、次のバイトまでリズムを崩したくないのに、無駄に目を覚まして辛くなっていた。このころ、終わっていく感情を煙草だけでは誤魔化しきれなくなっていた。初めて肌をカッターナイフで切った。暑がりで秋ごろまでずっと半袖だから、二の腕の上の方、いわゆるアムカ、アームカットだった。煙草にも似て、自傷にも依存性と耐性がある。最初のうちは切り開いた一筋のじくじくした痛みと、白い組織から滲み出てくる血液を見ているだけで少し落ち着きを取り戻せた。すぐに本数と頻度は増えた。半袖で隠れる範囲はすぐに傷でいっぱいになった。一息に何本も切って、痛みで思考を抑えないと、気が狂いそうなほど苦しかった。カッターナイフと煙草で自分を傷つけている時は、自分が自分であるように感じることができた。自分はまだ生きていると、まだ生きる意思があると、死にたい自分に反駁するように、繰り返した。そうでないと思考を保てない自分が悲しくなって、認められなくなって、また傷を増やした。

卒論の締切は2月頭だった。それまでに出さなければいけない進捗、実験の準備、バイト、まだ顔を出さなければいけなかった部活、全部、どこか現実感がなくて夢の中のようだった。家に帰って、不安と恐怖と、よくわからない負の感情と、死にたさと、ないまぜに感じている時間が一番逃れようのない現実だった。だんだん、昼間研究室にいる自分と夜中の鬱病患者の自分が乖離していった。先のことを考えることなんてできなくて、ただその日にやらなければいけないことを何も考えずに進めて、卒業だけはしなければいけなかった。卒業できなかったら、あれだけ苦しんで合格した院試をもう一度受ける羽目になる。進むのも地獄なら、立ち止まるのも地獄だった。マリオネットのように、見えない何かに体を動かされて、夜は糸が切れたように気持ちを沈ませていた。

この期に及んで、鬱と診断されて通院していることはほとんど誰にも相談していなかった。数少ない、自分が比較的気を許せる三、四人の同い年の友人だけに、吐き出すように伝えただけだった。アスペルガーじゃないか、自分を疑っていることまで言ったのはさらに少なくて、この頃は二人。二人ともに、同じ反応をされた。曰く「誰にでも多少は当てはまる部分があるんしゃないか」と。結局、自分が受け入れ難いことは他人でも受け入れ難いのだと知って、更に落ち込んだ。あまりにも落ち込んでしまって、逆になぜこの返答が自分をこんなにも傷つけたのか考えた。僕は、自分が発達障害とともに生まれたことを受け入れるしかなく、それが治らないことも受け入れる必要があった。これは最初からわかっていたことである。その助けになるだろうかという気紛れで話した結果、前提に疑問を呈されると、混乱するし他人にこの苦痛はわからないということを突きつけられるようで苦しくなる。励ましのつもりでかけられたのか、少なくとも悪気があって言われたことでないのが、消化不良を起こす原因でもあったのだと思う。このような言葉を返される原因の一つは、もう二十歳を過ぎてある程度適応しているために、周りから見たときそこまで典型的な症状に見えないということだと思われる。僕の場合、社会性の欠如は薄っぺらい会話をする技術を身につけることで、こだわりは周囲から見て理解できる範囲しか口に出さないことで、奇妙に思われることを回避するようになっていたと思う。そこまですれば、寡黙で凝り性でオタクっぽい陰キャぐらいに見えていたはずで、これは高校に上がる前には大体完成していたのでそうなるのは必然でもある。ただ、そう振る舞うことはいつまでも苦痛で、特に不要な人間関係を維持するのはかなりの負担だった。それは他人に理解できるものではないだろうから、しょうがないのであった。

両親には鬱で通院していることも何も伝えていなかった。責められることはないだろうが、あなたの息子が発達障害て鬱ですよ、と告げるのはなかなか辛いことである。が、大学の学費は有難いことに全額出してもらっているので、ストレートで卒業できない事態になったら伝えよう、とだけ決めた。幸い院試は通っている。卒論もとりあえず出せば卒業はできるのだから、目下のところはコツコツ卒業研究さえやれれば問題はなかった。

今となっては卒業研究の記憶はあまりない。というか、そもそも物覚えが悪く思い出を忘れていく方なのだが、鬱になってからは顕著で、研究をした記憶も鬱に苦しんだ記憶もほとんど記憶にない。Twitterで気持ちを吐き出すために作ったアカウントの過去ログだけに苦しんだ記録が残っていて、本当に惨憺たる状態だったようである。一つ覚えているのは、別れた恋人が僕の誕生日にコンビニスイーツを買って家に来てくれたこと。絶不調だった僕は明らかにおかしくて、上の空の返事、せっかく買ってきてくれたスイーツも食欲のない口にゆっくりゆっくり運んで、流石におかしいと思ったのであろう彼女にどうしたのか問い詰められたけど、全く思考も働かず言葉の整理をしようとする間に、彼女は痺れを切らせて怒って帰ってしまった。もはやどちらが悪い悪くないという話ではないけど、両方にとって最悪の結果であることは確かだった。彼女は結論を急ぐ癖と全てを知ろうとする癖があるので、それも災いした。僕はそれ以降、人に相談するのが少し怖くなってしまった。

年末年始にかけて病状は最悪だった。天邪鬼的なのだが、世の中が明るくなると僕は落ち込んでしまっていたのでイベントごとのある時期は最悪だった。帰省して、家族と話す。心構えはあったし、ボロを出さないよう三泊くらいで帰ったのもあって、精神が参っていることは悟られずに済んだ。それでも疲労は誤魔化せないくらい溜まってしまった。3週間、研究に手がつけられなかった。

結局卒論の半分くらいを三日で書き上げることになった。ほとんど寝なかったのでハイな状態で何とか済ませたが、お釣りは大きかった。卒論発表は散々だった。スライドの体裁を整える余裕はなく、完全に昼夜逆転していたので朝9時に会場に行くには徹夜するしかなかった。鬱で働かない頭で、質疑も滅茶苦茶だったはずだ。しかし、卒業は、できた。

この頃はコロナのニュースが聞こえ始めた頃で、発表するはずだった3月の学会は中止になった。ただ休みたかった僕にとってはありがたかった。精魂尽き果てて、脳を休める時間を欲していた。だが、ゆっくり休めるという期待とは裏腹に、家でひとり横になる時間は、最悪だったはずの精神をさらに蝕むことになっていった。

otakev.hatenablog.com