死にたさと呆れ

メンヘラアスペ大学院生がゴミを書き捨てるところ

僕とアスペルガー

僕は自分がいわゆるアスペルガー症候群、正確にいえばASDだと自覚している。が、診断されたわけではない。この辺の難しさについて、少し書いておく。

ASDは自閉スペクトラム、すなわち自閉症を代表とすれば、特有の症状を共通しながら、知能の遅れや言語発達が自閉症と診断されるラインから定型発達と変わらないレベルまで、広い病状を包括する概念で、だからこそspectre、分光された連続的な色の変化に喩えられているのだろう。と、理解している。専門ではないから調べた範囲でまとめれば、こうだ。

さて、特有の症状とはなにか。典型的には、社会性の欠如と、強いこだわりであって、これがASDを特徴づける中核症状で、かつ患者にとっての悩みどころである。

ここからは僕の解釈と実体験の話だから区別して読んでいただきたい。

社会性の欠如といえば、コミュ障という概念を連想する人もいるだろうが、コミュ障というのはもっと広い概念なので切り分けていきたい。

コミュ障を自称する人で、一番多いタイプは単に自分がコミュニケーションに慣れていないことを指してコミュ障と称しているに過ぎない。例えば、友人と話すのは慣れているが初対面の人とは話しづらい、年上の人間と話すのは疲れる、上司と話すのが難しい、とか。そもそも慣れていないことをするのはストレスなので、障害でも何でもなく正常な人であることが多い。

次に、コミュニケーション自体に苦手意識を持っている人。これは一種の障害と言えるだろうし、ASDも含まれると思う。親や同年代相手のコミュニケーションで失敗、トラウマ、ストレスを継続して経験すれば、だいたいどんな相手とのコミュニケーションでも苦手意識がつく。例えば、見た目を繰り返し蔑まれた経験。吃りでうまく話せず、何度も恥をかいた経験。僕の話をすれば、他人とコミュニケーションをとること自体がストレスだった。他人の無神経な発言を聞かなければいけないこと、自分の考えを話さなければいけないこと、相手が理解できるように話を展開させられないこと。これらは慣れることなく、物心ついてから10年近く、ずっと繰り返してきたことである。それが苦痛ならば、だんだん周囲とコミュニケーションをとることを避けて孤立するようになる。よほど親切な友人でもいない限り、どんな人でもそうなるだろう。僕の理解では、考え方や努力の問題ではなく、そのように生まれてしまったからにはどんな人がどんな工夫をしても大抵はそうなる。

具体的な話をすれば、僕の場合、会話がターン制になってしまいがちだ。話す番と聞く番がある程度あって、割り込まれるとペースを乱されたようで困ってしまう。が、こちらからは割り込みたくなってしまう。話す前に内容が決まっていないと話し出せなくて、しばらく考えてまとめてからでないといけない。会話中に黙り込んで考え出すので、人によっては奇妙に感じるようである。

話し出すと無軌道に話が飛びがちで、必要と思われる要素、結論を導くために必要な根拠、思考の順番と動線、それを全部含めるように話す癖があるので、聞く側としてはわかりづらいし、長い。適当な話をするのが苦手で、研究や部活など、目的のある会話の方がよほど楽である。寧ろ、何気ない会話こそ考えることが多い。自分と相手の関係性であるとか、相手の気分、何を話したいのか、自分以外と何を話していたのか。相手が不快にならないように、自分が不快にならないようにどうしても考えてしまうから結局何気なくもない会話になってしまう。成果もないし、ただ疲れる。そんな経験を連ねて、目的のない会話を避けるようになった。

次にこだわりについて書いていこう。

ASDの人に限らず、多かれ少なかれ誰もが持っている性質であって、要は強弱とそれによって周囲とズレてしまうかどうかが問題である。常識的に理解できる範囲なら、特質や場合によっては長所と判断される。幼少期であれば誰でも想像できる形態をとる。例えば、電車の細かい形式の違いとか、国名と国旗の組み合わせとか、分子の構造式とか、そういう規則的でバリエーションに富んだものに魅力を覚えて、新しいものを知って分類しようとする。僕も小さい頃はまさにこんな感じで、国旗・国名・首都の名前を覚えていたのは小学生の頃だっただろうか。今思い返すと、それぞれの国について思いを馳せるでもなく、単に国旗というフォーマットで表現させる多様さとそれぞれをidentifyする国名と首都という組み合わせに魅了されていた訳である。奇妙に思う人もいるかもしれないけど、アスペルガーというのはそういうものだ。高学年の頃には漢字を覚えるのに夢中になったこともあった。鬱や薔薇を覚えたくなる人は多いだろうからまだわかるんじゃないだろうか。漢字源を持ち歩いて書き順の多い方から書き取っていたものである。

中学時代は有機化学の構造式である。高校の化学便覧を持ち出して授業そっちのけでノートに構造式を書いていたことを思い出す。やはり最高なのはベンゼン環だった。配位によって規則的に名前が付いていくのも面白く、ベンゼン環の略記は邪道だったのでCとHのひとつづつを線で繋いでいくのである。ここでも、構造としての美しさが優先順位の一番であって、用途や性質はついでに覚えていく程度であった。周期表も面白くてちょっと長めの語呂合わせを覚えたりしてそらで上半分を書く練習をした記憶がある(スコッチ爆ロマン~斡旋ブローカー)。しかし、この頃には自分のそういった興味が他人と違うことを察していて、外に見せることを抑えるようになっていた。まだ話の通じる(といっても当時は今ほど市民権はなかった)ボカロやらニコ動の面白い動画やら、今でいうネットミームに染まっていた時代である。

高校で部活に入ったころからこだわりを適応させる術を覚えた。放送部では映像作品を作ったりアナウンス・朗読を上手くやることが必要である。であれば、自分の「うまくやりたい」「こだわりたい」ところを徹底的にこだわっても(納期が許せば)文句を言われることはない。実に楽しくて、大学でも同じようなことをやっていた(メディアからものづくりに現場は変わったけど本質的には似ていた)。

大学に入学したころには自分がどういう存在であるか、なんとなく理解(誤解)していた。早熟なところがあって、他人より完成度にこだわり続けて集中することができる。一方、頭を使うことは同年代より得意な分、友達付き合いを避けるから交友関係は狭い。自信家に見えるかもしれないが、偽らざる自己評価であった。論理が破綻しているわけでもないし、部活動や大学受験で周りと比べた時に矛盾するでもなかった。小さな失敗や挫折はあったものの、部活動の大会や受験といった節目では大失敗をすることはなかった。自分の中でも自分が大きな挫折を経験したことがないことは危うく思っていて、わざと大学受験は中部地方で(医学部を除けば)一番偏差値の高いところに設定して挫折ポイントにしてやった。結局、半年の受験勉強でアッサリ第一志望に入れてしまって、自己評価を更新するチャンスを逃してしまった。

自分がASDでないかと疑念を持った時はかなりの衝撃を受けた。寧ろ今まで疑わなかったのが不思議なくらいピッタリと症状が合っているのである。そしてASDの難点はまず治らないところにある。ADHDなどとは違って薬があるわけではない。確定診断が出たところで精々行動療法、要は行動を変える努力をするわけで、正直ちゃんと考える能力のある成人にとって確定診断を出す意味は見いだせない。さらに、成人の発達障害は往々にしてそれまでの適応によって典型的な症状からは形を変えているから、診断を出すには保護者から幼少期の話を聞く必要がある。患者として、あなたの息子が発達障害かもしれんから医者の前でちょっと喋ってくれんかと、言えるだろうか? しかもわかったところでなんの得もない。精々SNSのbioに確定診断ですと謎に誇らしく書けるぐらいである。僕は両親に発達障害について何も言っていないし、これからも言えないと思う。生まれながらのものである以上、責任を無駄に感じさせるのはわかっている。そんな選択はどう考えても僕にはとれない。

さて、自分が発達障害ではないかと疑念を抱いたとき、それを否定するような感情は浮かんでこなかった。納得してしまったのである。今までの自分に対する違和感、他人と違う理由、そして何より、友人を作らない選択をしているという建前で友人を作れないことを隠しているという葛藤や疑問のようなものに対する解答としてこれ以上ないものであった。自分がアスペルガーだということは理解した。が、これを受け入れられるかどうかは別問題であった。

他人と違うのは特質や長所と呼ばれるものではなくて障害と症状であること、そして交友関係が狭いのは選択の結果ではなくそうすることしかできないという救いのない結論。何よりそう信じてきた今までの自分が間違っていたという虚無感。追い打ちをかけたのは、これが他人から見ればそれほど重大な問題だと思えないであろうことだった。症状であったとしても特質や長所として生かせるだろうと、間違っていたとしても別に何も変わらないだろうと、そして多かれ少なかれ誰でも持っている問題だろうと、実際に相談すると2/3の人がこう答えた。なんの救いにもならない。というより、何を悩んでいるのか、当事者でないと理解できないのかもしれない。Identityが否定されて白紙に戻されたような感覚、いずれ普通にできるようになるだろうと高を括っていた違和感が一生治らずにうまく付き合っていかなければいけないと宣告された絶望感。近しい人にこそ打ち明けられないし、打ち明けたところで何も改善しないという希望のなさ。言葉にするのは難しいが、当時はその思考で頭の中は一杯になった。そして今でも、解決されないまま頭の中に刺さっているような感覚がある。折に触れて痛むのである。

頭では、悩む必要はないと理解している。悪いことばかりではないと理解している。事実は事実で、多分治らないのも事実で、だんだん適応していくのも事実で、僕に他人より優れている部分があるとすればそれはこの障害のおかげだというのも、多分事実だ。しかし、困ったことに事実に救いはない。自分の中に救いはない。結局、他者から肯定されて、そのままでいいと確信をもって言われることでしか救いはないのだろうし、それがわかっているからこそ、この他人と距離を詰められない自分にとってその救いがどれほど得難いことなのかもわかってしまう。カウンセリングに救いはない。自分の考えについて話して聞いてもらうことは確かに良いことだとわかったけれど、結局この問題を受け入れる助けにはならなかった。カウンセラーは仕事である。ドクターも仕事だ。申し訳ないけどそれ以上であると感じられることはないし、申し訳なさと悲しみだけが積もっていく。

自分は理性で動く人間だと思っていたけど、結局感情が人間を動かす。それに気づけたのは大きな収穫だったのかもしれない。社会の弱い側へのまなざしを獲得したことも、また収穫だ。悪いことばかりではないというより、本当は悪いことなんてないというのは理解している。だからこそ、受け入れるのが難しいというだけでこれほど悩むのに驚きがある。いつか良かったと思える日が来るのか、その日まで生きていられるのか、疑問である。