死にたさと呆れ

メンヘラアスペ大学院生がゴミを書き捨てるところ

211105

久しぶりすぎる。

しばらく元気だったのにまた駄目だ。夜が寝れない。目を閉じると悪いイメージがわっと襲ってくる。一緒にいてくれる人が欲しい。心臓と胃袋が収縮して痛い。終わりのない思考に脳みそがギブアップしている。

昼間の空元気が上手くなるほど夜死にたくなっていく。まだ外面は大丈夫だ。普通の学生が普通に学校に行っているように見えるはずだ。

この感情を吐き出す先がない。話す相手がいない。抱きしめる人がいない。わたしのことを考えている人なんて、誰もいない。

寂しい。さみしいなんてダウナーな感情よりは、痛みに近くて辛くてしょうがない。胸が痛い。じっとしていられない。悲しい。淋しい。今晩の感情は煙草で抑え込めるだろうか。

211010

正直、何も感じてないかも。

寂しいとか言っちゃって、長々と文章を書いて、辛い辛いと書き捨てているけど、別にそうじゃないといえばそうじゃないかもしれない。

毎日、健常者に見えるように振る舞う、平気に見えるように、疑いをかけられないように。

心配も攻撃も、同情も侮蔑も、回避できる。

そうしているうちにじぶんがからっぽになっていくように感じる。心を動かされることがない。楽しいことがない。求められる役割をこなしているのでは、人形と変わらない。

普通の枠から外れる人が攻撃されるのは当たり前だ。皆そうやって自分の属する共同体から異常者を排除していくことで生きている。自分はそんなことはしないと思ったらば、9割方嘘だ。自分がマジョリティに属するかマイノリティに属するかで排除する対象が大きく変わるにせよ、一人の人間は全人類を背負えないだろうよ。

そして、僕は。どのような共同体に属することもできず、自分を含めてみんなを呪っている。みんな死ねば、あるいは何か世界が変わるんじゃないか。そんな妄想もしてしまう。

211008

とりあえず平日を乗り切ったようだ。

何しろ頭が痛い。なかなか辛いものがある。特に何もしていないのに壊れたというのはPCなら笑い話だけど人間なら厄介だ。

やはり生活リズムがよろしくない。寝れなかったり寝過ぎたりで疲れる。授業は初っ端から寝坊するし。研究室にいる間は眠くて帰りたくなる。家に帰ったら眠れない。

しかし頭痛は地味にきつい。頭痛自体より、気晴らしにゲームというわけにもいかないのだ。結局横になって、眠れないで、悶々とするだけの家で過ごす時間。

シャニマスが悪い意味で盛り上がってしまっている。平穏に、できるだけみんなの努力が損なわれない形で収束すればいいが。

楽しいことがない。とあるライブチケットの先行を二つとも落とした。遊ぶのもしんどい。

なぜか眠れなくて夜明けを迎えようとしているので、久しぶりに酒を飲んで無理やり寝ようとしている。翌日いつも後悔するのだけれど、明日は明日の自分が何とかするので。

自己同一性が希薄かもしれない。昨日の自分と、明日の自分が、今の自分と同じ存在であることがピンとこない。どこか他人事だ。別にもう、自分が壊れてしまっても別に自分すら困らないのかもしれない。

211006

眠れない。12時ごろに布団に入ったはずなのに外が明るくなるまで眠れなかった。流石にしんどい。午前の授業があったので眠れたのは3時間ちょい。今日も二度寝できなかった。

暑い。大学に喫煙室が欲しい。タバコ吸うたびに暑さでよくわからん頭になってしまう。吸っても吸わなくても頭おかしくなりそうだ。

昨日カウンセリングだった。割とぶっちゃけた話ができてよかった。相手が何もしない、聞くだけの存在だからこそ遠慮なく何でも言えるというのはよくできている。ドクターと話すと申し訳なくなったり虚勢を張ったりしてしまう。

睡眠が崩れすぎているので眠剤だけ出してもらった方がいいんだろうか。でも結構金かかるんですよね、眠るためだけに。

このまま踏ん張れるものなら踏ん張っていきたいなあ、でも生活リズムの崩れはメンタルの崩れに直結するのでほどほどで眠剤出してもらいに行くべきなのかな。

2年前の今頃、院試前ちょうどこんな感じだったなあ。あれからじゃんじゃか悪くなっていったから、同じ轍を踏まぬように祈る。

寂しさ

独りで生きるのが辛くなってしまった。

原因はなんだろう。5年も付き合っていた恋人と別れたからか。独りで鬱を経験したからか。

男のメンヘラに需要はない。いや、女性でも本当は需要はないのかもしれない。ただ弱っている若い女性に見境なく言い寄るおっさんがいるだけで。

二十歳を過ぎれば、皆自分のことで忙しい。優しさとか、面倒見とか、そういうパラメータは就活やら仕事に上書きされていく。そんなときに鬱になったらどうなるか。自然とみんな離れていく。自分の面倒も見られないような人間を気にかけるような余裕のある人はそうそういない。

頼りたかった人はみんな遠くに行ってしまった。東京に就職した人もいる。返信が返ってこなくなった人もいる。忙しさに会う頻度が減っていく。それはそうだ。面倒だろう。

カウンセリングを受けても、研究室に戻っても、寂しさは一向に埋まらない。僕の話を聞いてほしい。僕の痛みを知ってほしい。でも、自分で一線を引いてしまう。相手はカウンセラーだから。相手は別に仲良くもないし自分に興味もない人だから。相手は精神障害に偏見を持っているかもしれないから。相手を傷つけるかもしれないから。自分を傷つけるかもしれないから。

人格は多面多層だ。それぞれの人に向ける面。それぞれの人にさらけ出せる深さ。もはや僕はタマネギの皮の剥き方を忘れてしまったのかもしれない。

僕はあまり何か一つのイベントで変わるような人間ではないと思っていた。インプットが多いものだから、その積み重ねで骨格ができていると。余程大きな出来事があったとしても、過去の経験の一つとして消化できると。

アスペルガーと鬱は、そういう意味で僕を大きく変えてしまった。見た目も中身も。派手髪を伸ばして、ピアスいっぱい空けて、たまにはネイルして、かわいい服選んで。どれだけ外見が変わっても、それに中身が影響されるわけではない。僕の精神は鬱で様変わりした。自分に怯えて、自分を信じられなくて、自分が嫌いで、死んでほしい。そんな自分を誰かに助けられたいという薄い願望。

バンドマンみたいとか、変わったねとか、どうしたのかとか、言わなくていい。ただかわいいと肯定さえしてくれればいい。帰省したとき、祖父に別嬪だと言われた。女の子にしても別嬪さんだと。泣きそうになるほど嬉しかった。本当に、言ってほしかったことを、そのまま言ってくれる人が、僕の祖父で幸せ者だと思った。祖父が膵臓がんで長くないと聞いて、また沈んだ。どうしても、離れていく。束の間の幸せは、悲しみに上書きされる。

すぐ人を好きになる。自分が男だという自覚があまりない。昔から女の子の友達の方が多かった。女の子が好きで、男が苦手で、特に男が多いコミュニティが苦手だった。工学部に入ったのは何たる皮肉か。当時は友達を作ろうとも思っていなかったから別に良かった。恋愛感情が友達の延長線上にある。自分が男である自覚がないから、本当に友達として、女の子として、同性として異性として、好きになっていく。当然、相手から異性/恋愛対象と見なされることはない。鬱になってから、ハートブレイクの連続である。

結局恋愛感情なんてないのかもしれない。話を聞いてくれる相手が欲しいというただそれだけ。僕にとってその延長線上に恋愛があると誤解しているだけ。話をして、触れ合う相手が欲しいだけ。こういうのを世間様ではメンヘラビッチという。やはり、男のメンヘラには需要はない。

ただ毎日が寂しい。他人の温かさに触れたい。悲しみを紛らわせてくれる誰かが欲しい。そんな一方的な要求を満たしてくれる人なんていないと理解している。叶わぬ望みだと。身勝手な願いだと。けれども、それ以上今の僕には何もできない。

211004

睡眠時間が短くなっていると思っていたがどうやら違ったらしい。朝日で起きている。

昨日の晩は遅くまでFF14にログインしていた。今日から授業があるので寝坊するかなと思ったがきっちり7時半に目を覚ましてしまった。おかげで朝から眠くてしょうがない。久しぶりにインスタントコーヒーを入れて飲んだ。ドトールのインスタントをもらって飲んだがなかなか美味い。

単純に薬を止めて昼間眠くならなくなったのだろうけど、元気だったころより寝覚めがいいのは何なんだろうか。というより二度寝ができなくて困る。このまま不眠気味になったらもっと困る。落ち着いてるのに悪くなりそうだ。

やはり夜はよくない。寝る直前までゲームしていると寝つきが悪くて余計な思考をしてしまう。もう何考えてたか覚えてないけども。

朝暇だったので色々書いてしまった。やはり文章を書くのは性に合っている。

今期初授業は10分でリタイアした。出席取らないらしいので単位だけいただこう。

流石にカフェインが切れると眠い。今日は早く寝よう。

消えゆく喫煙描写

書き古されたテーマだが思うことがあったので書き捨てておきたい。

まずゲームならCEROに代表される表現規制は必要から生まれたもので、それ自体の善悪を論ずることに意味はない。表現規制の基準が決まっていることで、その枠組みの中で表現をこねくり回せる。規制がなければ、各々が自分の判断で表現した結果、余計な衝突と問題を生んでじゃあ全部だめにしましょう、という流れになるので先に基準を作っておくのは大事だ。要は、こういう基準でやってます、という建前があれば矛先は作品自体ではなく基準に向けることができる(それだけで済ませたくない人もいるようだが……)。

次に、表現規制の必要性というのはどこから出てくるのか? 古いトラウマとして「若きウェルテルの悩み」があるのではないかと思う。二百年以上昔の書籍だが、苦悩と自殺を描いた作品が人気になるとそれを模倣して自殺する人が増えるというやつである。今でも有名人の自殺報道に対して後追いで自殺者数が増える現象を指すウェルテル効果に名前を残している。

この現象に対する反応は真に感情的なものであろう。何しろ近親者を失った原因が同じ作品・報道に向くのである。すべての人ではなくても自殺表現を規制するべきという声が殺到するのは想像に難くない。感情的というのは別に馬鹿にしているわけではなく、人間を最も強く動かしうるのは感情であるから、それは激烈な動きである。

さて、この動きに対して一つの回答として表現規制という形がある。要は見せなければよいということで、場合によっては年齢規制が入ることも多い。これは、単一の作品に影響を受けて自殺などの行動に移すのは若年者が多いということに起因する。海外のゲームレーティング(ESRB)の最上位レーティング(日本でいう18禁)がMatureのMであることからも推察できるように、成熟した人間ならその程度のことは自分で判断してください、逆に言えば未成熟な人間に与える情報・表現は規制しましょうということである。これに関しては今回の論点ではないし特に議論になっているわけでもないので紹介するに留める。

真に議論の対象になっているのは全年齢対象の表現であって、喫煙描写についてもこちらが問題になる。自殺描写や暴力描写と同じように、若年者に害を与えるだろうという話である。

害を与えるかどうかでいえばそれは当然害である。特に未成年者にとっては早期喫煙の害・法律に抵触する害……基本的に未成年者には自分の行動を律する能力がまだないと考えた方がよいので、それを本人や保護者の責任に帰するのは無意味である。

論点は、例えば映像作品や娯楽作品の喫煙描写を減らすことの影響で、これをメリット・デメリット含めて議論がされつくされているのかは疑問である。当然、規制によって若年者に与える直接的な害は減る。大きなメリットだし、規制団体の方々としてはメリットしかないように見えるのかもしれない。

一方、表現の幅が狭くなることのデメリットとは何だろうか。喫煙描写を例にとれば、使い古された表現といえるほど一般的な小道具である紙巻たばこ、葉巻、キセル、嗅ぎたばこ、それら全てが全年齢対象の作品という括りで規制されるのは衝撃的である。大きな議論を呼んだ(らしい)「風立ちぬ」の例を挙げるまでもなく、喫煙を通して登場人物の心情、性格、弱さを表現するのは良く使われる手法だし、何より本当にそのような人がごまんといるからこそそういう表現が生まれる。代替しろという主張はそのあたりの事情から無理があるのがわかる。喫煙なしでは表現できない人間がいるし、なんなら自分を表現する映像作品を作れと言われたら喫煙描写は外せない。つまり、全年齢作品だからと言って無難で眼触りの良い作品にまとめてしまうのは、果たして若年者にとっていいことなのか、という話である。

子供と大人の境界はどこにあるか? 少し考えたらわかるように、明確な境界を引くことはできなくて、もちろん年齢で線引きするのも無意味である。ここから、子供に見せてはいけない表現という言葉にも意味がないことがわかる。子供を定義することができないからである。

僕は子供のころよく本を読んだ。雑食だったので児童文学からポルノ寸前の小説まで中学生くらいには読み漁っていた。当然喫煙描写はありふれていたし、小説を読む人なら性描写もしっかりあるのを理解できると思う。では、それを小中学生が読むのは悪いことだろうか? 結局情操の育て方は人それぞれなわけで、僕にとって別にそれは早くなかった。喫煙者のやるせなさとか、感情を暴力という形で表現する人とか、愛がセックスとして形になることとか、それを踏まえて人間がどう振る舞うか、人間として成熟するためには知らなければならない。

喫煙描写に限らず、表現規制全体が抱える矛盾、それも対象年齢という極めて重要な点についての矛盾をここに感じる。Matureでない人に向ける表現を規制するというロジックは理解できる。しかし、青少年を成熟させるのは結局大人向けの表現なのではないか。18歳まで若年者向けのコンテンツにしかアクセスできなくして、18歳になったら全部開放してやる、という方法で何かを制御できると思うのは思い上がりだし子供に対して失礼だ。規制があっても子供は何とかして見ようとするし、その経験を通して成熟していくものである。高校時代にプレイしたAIRや車輪の国、さよならを教えてなど、大きな影響を受けたエロゲを挙げていけばきりがない。それらは性描写を含めて18歳未満に見せるべきではないかといえば、どうもそうは感じられない(法規制とかとは別の話で)。エロゲはエロゲとして受け入れられる市場があるからこそできる表現があるわけで、その価値は未成年であっても享受する選択肢があってもいいと感じる。

結局、表現は多様であることに価値があるわけで、喫煙や自殺に限らず、飲酒、性描写、暴力、犯罪は知らずに生きていけるものではないし、それは10代も含まれる。大人になってから知ってください、というものではない。もちろん全ての世代が全てのコンテンツにアクセスできていいという訳でもないが……子供だからという理由で紛い物を見せていいということでもない。もう一つ、子供の周りに情報が氾濫しているという事情も忘れてはならない。自分から欲しいコンテンツを探す時代は終わり、取捨選択が必要な時代になって、旧弊な考え方は通用しない。これは規制の推進派、反対派両方にいえることで、彼らが育ってきた時代とは違うのだから違った規制が必要になるという認識がなければならない。Youtubeやweb全体という巨大なコンテンツに無数の表現が転がっている以上、それぞれにOK、NGを下すのは不可能だ。規制に反対する立場も、スマホ一つでアクセスできる情報が一昔前と全く違うことを自覚した上でモノを言わなければならない。とかくテクノロジーにおいて老いた頭ほど邪魔なものはない。

ではどういう形に落ち着けるのがいいのか……。少なくとも、万人向けではないと思われる表現にはアクセスするためにワンクッション挟む必要がある、ということには同意である。例えば、広告やYoutube動画はあらゆる世代が直接アクセスする表現なわけで、このあたりの規制が厳しいのは受け入れる必要があると思われる。Youtubeに関しては年齢制限が入ったりして基準に対して議論があったりするが、できるだけ制限する範囲を狭くしてもらえたらな、というのが正直な気持ちである。中高生の頃にインターネットの海に溺れていた経験から、18歳にならない頃というのは一番新しいものに飢えて感受性が成長する時期だと思うからで、その時期にアクセスできる情報が制限されているというのはかなり苦痛である。昔の年齢認証なんて簡単に誤魔化せたわけで、多少ややこしい手順を踏ませる必要があればそれがワンクッションになる……とも思う。公式にそれを許すことはできないけど、保護者層や規制団体から厳しくしろと要望が飛ばなければある程度はグレーに留まってくれないだろうか。

全年齢向けの映画やドラマをどこまで規制するか、という話に戻ってくる。個人的には今より厳しくするべきではないと感じるし、多少緩めた方がいいだろうなとも思う。既に喫煙シーンは駆逐されようとしているし、犯罪、性描写、飲酒など放置しておけば厳しくなっていく一方だろう。喫煙ばかりが取り沙汰されているのが不思議なくらいである。結局それはどこの規制団体が影響力を持っているかの違いであって、立ち止まって抗わなければなあなあで厳しくなるのは目に見えている。果たしてそれが本当に若年者のためなのか? タバコ憎し、表現の幅への興味のなさは表現の衰退とか若年者の情操の未発達という形でしわ寄せがいってしまうのではないかと柄にもなく心配するのである。