死にたさと呆れ

メンヘラアスペ大学院生がゴミを書き捨てるところ

昔の話3

鬱になった経緯。やっとメンヘラっぽくなってきそうな予感がする。院試とアスペルガーの話。

 

彼女と別れて独りになったのは3年の秋。僕の学部は院進率8割ぐらいで、ご多分に漏れず僕も院進を考えていた。比較的専攻替えや外部生も入ってくる人気の専攻で、ちゃんと院試勉強しないと落とされるし、そもそも授業をちゃんと受ける余裕もなかったので一からの勉強になる。試験は得意な方だが時間をかけないといけないのはわかっていた。

相変わらず部活はやってたので、院試勉強に専念できるのは6月中旬から2か月。それなりに密度を高くしてやる必要がある。大体の人は研究室のB4たちで協力して勉強するようだが、会って二か月、大して仲良くもなく、そもそも苦手なタイプの人間と一緒に勉強する気も起きなかった。

つまりどういうことか。彼女のいなくなった自室でひたすら一人で勉強することになったのである。やり始めは特に意識することもなかったが、2-3週間で異変が現れた。夜になると気分が落ち込んできて集中できない。眠ろうとしても良くない考えが頭の中をぐるぐるして眠れない。この症状は試験勉強中には致命的だった。概ね10時間前後は勉強時間に充てていたが、眠りにつくはずの時間から実際に眠れるまで、2時間かかるようになり、4時間かかるようになり、さらに睡眠も浅く、早く起きるようになっていった。症状を感じてから10日程度で、机に向かえる時間は2時間に満たなくなっていた。目が覚めても眠気が酷くて起き出せず、起きて飯食って机に向かうと既に体が眠りを欲している。気持ち程度の勉強をして横になっても、眠いだけで眠りにつけることはなく、考えたくないことばかり考えてしまう。結局、起きている時間のほとんどはベッドの上で悶々とする時間になっていった。

こうなった原因には心当たりがあった。彼女と別れてからしばらくして、4月ごろだっただろうか。何の気無しにアスペルガー障害(ASD)のWikipedia のページを見ていた。あまり知らない分野のWikipediaを漁って広く浅い知識を付けるのが好きなのである。そこで、代表的な症状に自分が当てはまりすぎていることにはたと気づいた。

"社会的コミュニケーションの困難" まさに彼女に指摘されていたことで、他人の情緒を理解できない。冗談を理解できず、聞き返して場を白けさせることも多かった。人の目を見て話せず、矯正しようとされたが治らなかった。相互のコミュニケーションができず、話を延々と聞くかこちらから延々と話すかが基本になってしまう。話していると自分の思いつくままに話を展開させて話が飛んだように思われる(これはものを書く時でも同じで、多分この文章の読みにくさはその辺りに原因がある)。場の雰囲気に合わせられず自分の振る舞いに固執し、結果場から浮いてしまう。結局、ほとんど友達ができず、そもそも友達付き合いで苦痛な経験をしすぎたためにもはや新しく作る努力もしなくなっていた。

"狭い興味と反復行動" アスペルガーといえば、という印象を持つ人もいると思うが、ご多分に漏れずそのケがあった。特に幼少期、世界の国旗と国名、首都の暗記に始まり、難読漢字に凝っていた時期、中学の頃は有機化学の構造式を授業をよそにノートに埋め尽くしたり、とにかく「凝る」対象を見つけるとそれ以外を放置して熱中する傾向にあった。が、この傾向は中学くらいでなくなりつつあり、むしろ世間一般の流行に対する拒否感、自分の興味をより尊ぶという価値観に収斂したといえそうである。

"社会不適応" これはアルバイトで嫌というほど思い知らされた。同時並行のタスクがあると途端にミスが増えること、何度指摘されても同じミスをすること、曖昧な指示に対して細かく聞き返さないと何をしていいか理解できないこと、慣れたはずの作業でミスが多いこと、うっかり忘れが多すぎること、急に指示される事や変更があるとあらゆる業務がギクシャクしてミスを多発すること。挙げ始めるとキリがないが、結局店長に溜息混じりで「君、ミス多いね」と言われる羽目になる。学歴はそこそこの割に、と言外に言われているようで余計に落ち込むことになった。

"感覚過敏" アスペルガーのイメージとしてあまりない症状だったが心当たりが多すぎて驚いた。まず僕は歩き方と走り方が変らしい。卓球をやっていた時も、ただ腕を前に出す動作で手首がビクンと動いてしまって精度が出なくなる。居酒屋の話し声や有線放送の音が苦手で耳を塞いで逃げ出したい衝動に駆られる。客ならイヤホンすればいいのだが、居酒屋でバイトしていた時は結局それに耐えられなくて辞めた。些細なことを覚えすぎて、脳を一瞬の不快な経験に支配されるような感覚。全部アスペルガーの特徴だと。

 

正直、安心している自分がいた。自分がその他大勢と違いすぎること、何故か他人のように上手くできないこと、楽になんとなく生きていけないことにずっと疑問を抱えてきたからだ。その答えを提示されたようで、友達ができないのはお前の努力不足ではないと言われたようで、ある意味の救いを与えられたような気持ちになった。要は逃げ道を与えられたのである。

しかし、それを上回る恐怖もまた押し寄せる。アスペルガーは治らない。少なくとも薬で誤魔化すことはできない。今まで人付き合いを楽にやっていく方法とか、バイトでミスしない努力とか、運動する時不器用なのを直すとか、そういったことが全て失敗してきたのが当然だったと突きつけられたのである。しかも、それを根本的に解決する方法はないと、生まれつきの障害としてこれからの人生で背負っていかなければいけないと、理解してしまったのである。

最も受け入れがたかったことがある。僕は小学生くらいの頃から周りから浮いていて、虐められたこともあったが、基本的には多数派の人間とうまく距離を置いて立ち回ってこれていた。友達は少なく、興味も世間とはズレていて、しかし頭が悪くなかったために周りから攻撃されることは少なかった。基本的には「勉強してないけど成績は上から何人かのうちにいる変わった人間」と認識されていたと思う。多数派はそういう人間に関わろうとしない。虐めようともあまり思わないのである。翻って、僕は自分のことをどう思っていたか。そのような「浮いているけど排除もされない」立場になると、自然と「自分は多少変わっているが、そうであることを選択している」と考えるようになっていく。つまり、友達は作れないわけではなく作らない。多数派の興味の対象にはあえて興味を向けない。これは虚勢や強がりではなくて常識的に考えた結果だった。なぜなら「他の人間と同じ種の自分にはそのような機能は備わっているはず」だと考えるのが自然だからである。その前提と自分の特異さを考慮すれば、自分はそう選択している、と考えるのが自然だし、実際そのように受け入れていたのだと思う。思う、というのはそのような考えを無意識に持っていたことを、それが「選択」でなく「機能不全」だと突きつけられる形で崩された時に初めて気付いたからである。今までの人生、物心ついてから10年余りで醸成されたその無意識が、間違いだったと知ることは衝撃で、受け入れがたかった。有り体に言えば、自分が欠陥品であることを、受け入れるのは難しいものである。特に、そうだと露ほども考えなかった人間にとっては。

 

話を戻そう。鬱の症状が出始めたのは、おそらく自分がアスペルガー障害であるという可能性について知ってしまった時、たまたま相談できる人を失っていて、たまたま院試勉強という一人でいる時期であったことが重なってのことだったのであろう。症状は加速度的に悪くなっていった。睡眠障害だけでなく、ベッドで自分の生きる価値について悩む時間が増えていった。だが、鬱がひどくなっていっても、冷静な思考を維持することは、少なくとも1日のうち幾らかの時間は、続けられていた。このまま放置すれば院試に落ちる。とりあえず精神科に行って睡眠薬だけ出してもらおう。気分を何とかするのは院試が終わってからでいい。精神科に初めていくのには誰だって抵抗があるだろうし、それが一人で、自分の意思でいかなければいけないというのはなかなか難儀だった。ともあれ、雑に話して睡眠薬だけ貰ってきた。救いになるとか期待もしていなかったが、アッサリ鬱ですかね、と言って自分が求めた通りに眠剤が出てくるのは少し面白かった。素人の、患者のことを鵜呑みにするしかないというのは、なかなか難しいんだろうな。

薬は劇的には効かなかった。それでも眠りに落ちるまでの時間を短くして、眠りすぎるほど眠って、昼間に眠気が残るのは有り難くなかったけど、勉強時間を伸ばせるのはありがたかった。それでも、4-5時間ぐらいが限度だったように思う。起きてしばらくは眠気がぶり返してきて机に向かうどころではなかった。しばらく集中していると、アスペルガーのこととか、鬱のこととか、自分の価値のこととか、勉強不足で院試に落ちることとか、不安と辛さがするりと滑り込んできてもう勉強どころではなくなるのだった。そうなったらさっさと眠剤飲んで寝ようとするけど、起きてから半日も経たずに寝られるはずもなかった。結局好きでもない酒を飲めるだけ飲んで、吐いて最悪の気分のまま意識を手放して眠るようになった。吐くまで飲んでも眠れない時は寝られるまで眠剤を追加した。1週間分の錠剤はすぐなくなって、結局薬がなくなってからの3日くらいは勉強なんて手につかなかった。もう、自分が自棄になって自殺しないように労ってやることで精一杯になっていた。久しぶりに、死にたいと思うようになった。

クリニックで薬を増やしてもらった。最大量で安定して眠れるようになった。気分は毎夜落ち込んで、救いに飢えていた。数少ない、気を許せる友達と、話したかった。けれど大体みんな忙しくて、急に声を掛けるのが申し訳なくて、掛けたとしても返事が来るわけでもなくて、一人で暗い部屋で茫然と死にたくなる時間だけが積み重なっていった。気を紛らわせたくて初めて煙草を吸った。少し気持ちが落ち着いて、すぐにやめられなくなっていった。

院試まで時間はなかった。今までの教科書中心のやり方では間に合わないと判断して、過去問中心に切り替えた。残り1週間ぐらいで、また気分の落ち込みの波が来た。もう院試なんてどうでもよくなりつつあつた。ただ自分のどうしようもなさにどうしようもなく死にたくなって、昼間は自分がうっかり死なないようにできるだけ精神を安定させることに精一杯だった。院試まで3日を残してマシになった。3日で3年分過去問をやって、試験前日の夜はさっさと寝た。試験中に眠気が来たら終わりなのはよく知っていた。滑り止めとか考える余裕もなかったから、失敗したら終わりだった。二日かけて筆記試験があって、1日明けた日が面接日だった。別に失敗はしなかった。試験が得意な方でよかったな、とぼんやり思った気がする。面接の直後に結果は教えてもらえた。真ん中ちょい上で通ったらしい。

とりあえず一息ついて帰って寝ようとした。一件落着した気持ちになって、しばらく休みたかった。院試が終わって、鬱も不眠も良くなるんじゃないだろうかと、漠然と思っていた気がする。

その日の夜は、変わらず死にたくなって、眠れなくなって、睡眠薬を飲んで寝た。次の日も、次の日も、何も良くならなかった。相変わらず死にたくてたまらなくて、昼間は自分が何かの拍子に自殺しないか、不安で押し潰されそうになっていた。僕の鬱はまだ始まりの始まりだった。

 

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昔の話1

日記と備忘に。鬱になった経緯とその時考えていたこと。高校生のころ、恋人ができた話。

 

高校一年のころに恋人ができた。とはいえ単純に好きになったからかというと少し厄介な話で、僕のお人好しが多少行き過ぎた結果である。

彼女は少し厭世的で、男性嫌悪があって、常に人を、正確には下だと判断した人を小馬鹿にする癖があった。なんとなく似ているところを感じたのが仲良くなったきっかけだったかもしれず、僕も他人とうまくやるのが苦手で、男が苦手で、頭の悪い人が苦手だった。

影のあるところを見てしまうと、その理由を知りたくなる。そして、可能ならそれを解決したくなる。今でも変わらず、その時の僕はお人好しだった。

よく夜中に通話をして、色々な話をした。僕の興味の中心は、なぜ彼女がそうなったか、であった。核心を聞き出すのは容易ではなかったし、急いで聞くべきことでもなかった。彼女はその当時僕が知っていた人の中では頭が良かった。頭が良い人と話すのは楽しいものだった。歴史が好きなこと。昔Skypeでおっさんを釣っていた話。某有名コスプレイヤーSkype仲間だった話。読む本の話。小説を読んでラノベを読まない話。オタクの友達しかできない話。

2、3ヶ月ぐらいそんな話ばかりしていただろうか。彼女は家族の話をあまりしたがらないことに気付いた。特に歳の離れた姉の話だった。それはただの部活仲間に話すことではなかったんだろう。僕はそれを聞き出すためにとある決断をした。

僕は彼女の過去の話を聞き出すためだけに、あなたのことが好きだから話してほしいと言った(本当はもう少し回りくどい言い方をしたが恥ずかしいので伏せる)。その時点で、過去に彼女に浅くない傷を残した出来事があったことは察していたし、それを聞いてしまったら彼女を放置できないことはわかっていた。自分なりに彼女の過去を背負う覚悟を持って、彼女の隠したいことを知ってしまう責任を全うするつもりだった。果たせるかな、彼女は泣きながらだったか、怒りながらだったか、過去にあったことを話してくれた。端的にまとめれば、姉が結婚せずに産んだ上に実家に預けられた赤ん坊の世話を、中学生だった彼女がさせられていたという話だった。それだけでも負担だったろうに、おそらく家族の体面を気にして誰にも相談せずに、ずっと育てていたのだと、その怒りとやるせなさが今の彼女を作っているのだと、理解した。

僕は彼女のことが好きだと言ってしまっていた。本当か嘘か、難しいところだった。ただ、彼女の救いになれればいいと、自分より恵まれていない彼女が少しでも幸せになれるようにと、それだけは譲らないことを決意した。それは結局彼女のためではなく、自分の誠意のない行いを自分で認められるようにするための自衛策であった。そして、その時の不安定な彼女に、そのことを悟られないようにするためだけに、僕は彼女のことをずっと、掛け値なく永遠に、大切にすると決めていた。誠意のない告白の返事がどうだったかは覚えていない。どうにせよ、それからほどなくして、僕たちは恋人になった。

彼女は多少依存する方で、気持ちが不安定なことが多かった。予定のない休日は大抵一日中通話していた。学校帰りには、終バスの9時まで、駅で過ごしたり、ゲーセンに寄ったり、できるだけ長く一緒にいた。カラオケに行くことも多かった。音楽の趣味は、少なくとも重なる部分があった。カラオケに行ったら、照明を付けずに歌って、抱き合って、キスをして、時には暗い話をするのがお決まりだった。過去の話を聞いて、また抱き合った。この子は人の温もりを求めているんだなと、理解した。

僕は何を感じていただろうか。少なくとも、心穏やかではなかった。彼女の救いになるにはどうすればいいか、常に考えていた。求められるままに抱きしめて、キスをして、愛してると言った。決して嫌だったわけではないが、自分の意思とは関係なく、求められるままに愛を与えるのは、場合によっては僕の中にひずみを生んでいた。それでも、彼女の求めることを与えることが、彼女の救いになることが、僕が愛していると言う前から決めていたことだったから、ずっとずっと、花に水を与えるように、愛を与えていた。花と違って、水をやりすぎても枯れることはなかった。

彼女を愛して、大切にすることは僕の義務だったし、実際そうできるようずっと努力していたつもりだった。一人の時間はあまりなくなった。他の友達と遊ぶ時間もほとんど作らなくなった。強制されたわけではないけど、彼女以外のために時間を使うと、彼女の顔が曇るのが耐えられなかったのだ。結局、自分の中の罪悪感と戦っていただけだった。その状況でうまくやっていく方法は、全てを彼女のために振り向けて、彼女が僕にしたように、僕も彼女に溺れていくことだった。もういつだったかは思い出せないけど、初めて彼女の家に上がって、二人でたわいもない遊びをして、僕も彼女のことが本当に好きで、大切に出来るようになったことを実感した。彼女の家で、やはり暗い話をした。彼女が自分のことを認められなくて、自分がいない方がいいと思っていることを理解した。慰めようとして、ベッドの上で抱きしめた。そのまま、悲しみを快感で塗り潰せるように、初めて彼女を抱いた。

僕から見たら、最初から関係はいびつだった。僕は彼女を最初から好きだったわけではないし、かつ、僕が彼女を好きでいることは、少なくともそう見えるようにすることは、僕の義務だった。逆から見た像は、どうだったんだろうか? 僕は、ちゃんと愛を与えられていただろうか? 救いになれていたんだろうか? そんなことばかり気になって、ずっと不安は頭から離れなかった。そして、ずっと気ままに生きてきた僕にとって、彼女の求める愛の量は、少し過大だった。だんだん通話を繋ぐまでに迷う時間が増えた。ご飯まで「愛してる」と言い続けるのに虚しさを感じるようになった。他の人と話したくなって、彼女以外と遊びたくなって、自分を一番に考えていないと、彼女に謗られることが増えた。可愛い我儘だと片付けられないくらい、僕は追い詰められていった。何も考えずに済むように、自分の首の血管を手で絞めることが増えた。額を机に打ちつけて、痛みで辛さを上書きするようになった。指を噛んで、気管を潰して、自分を罰しているのか、怒りを誤魔化しているのか、わからなくなっていった。ある夜、通話を続けることに耐えきれなくなって、携帯を壊して、彼女の声を、誹りを聞かなくて済むようにしたとき、彼女を好きでいられているのか、よくわからなくなってしまった。数日気持ちが整理できずに彼女と会わなかった。結局会って謝ったけど、追い詰められたのはあなたのせいだと、直接的には言わなかったけど、思っているのは伝わってしまっただろうな。彼女の救いになりたいと思っていたことはもうわからなくなって、ただ愛しなければいけないという目的だけが僕にのしかかっていた。

結局、この歪みは大きくなるだけだと、このまま関係を続けていけないと察して、話せることを話し合った。愛を求められると無尽蔵に与える節があると。自分の時間を確保できないことは辛いと。僕の話も話すようにすると。この頃までには彼女の精神は大分安定していたような記憶がある。恋人になってからおおむね一年くらい。少しだけ健全で、少しだけ歪みがなくて、少しだけ安心できる関係に変わった。それでも一年間続けてきた関係をすぐにガラリと変えることは難しかった。前より少し辛くない気持ちで、彼女と付き合っていけた。

比較的穏やかに、それからの一年は過ぎた。相変わらずカラオケに行って、キスして、セックスして。寝る前にはずっと通話を繋いで眠りに落ちる。彼女が僕の愛を求めるのは変わらなかった。ただ、僕はすこし穏やかにそれを受け入れることができた。両親に彼女のことを話したのもこれくらいの時だっただろうか。素直に、彼女が好きだと言えるようになったし、彼女がこのまま僕のことを好きでいてくれるなら、結婚してもいいと思っていて。幸せで、自分の不誠実さと汚さに不釣り合いな生活だった。

高校3年の夏ごろ、進路の話が現実味を帯びてくる頃。僕も彼女も、頭は悪い方ではなかったので、某旧帝大に一緒に行くことを決めた。一緒に勉強したりもしたけど、二人でいるとキスやらハグやら求め合うから、一人で黙々とやる方がはかどった。お互い第一志望に収まった。これからも一緒にいられることを喜んで、本当に幸せな結果だった。僕たちは二人とも一人暮らしすることになったから、一緒にいられる時間がずっと増えることを喜んで、大学に進学した。

 

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昔の話2

鬱になった経緯のはずが、本題入るのまで長そうかも。恋人と別れた話。

 

大学生になった。一応彼女は別の居があったが、すぐになし崩し的に同棲した。ベッドはセミダブルにしていた。ほとんど毎日、彼女と一緒に寝て、起きて、授業が済んだら家で二人で過ごすか、相変わらずカラオケに行った。その生活は半年くらい、一緒に入った部活が忙しくなるまで続いた。

その部活についてあまり詳しくは書かないけど、とにかく糞忙しい部活だった。授業もそこそこに部活をやるのは高校生の頃から変わらなかったけど、彼女がいる僕の家に帰る時間はだんだん遅くなっていった。

ところで、僕の部屋は汚い。こまめに片付ける習慣がなく机でも床でも空いている平面になんでもモノを置いていってしまうので気が付くと足の踏み場がなくなっているのである。彼女もそうなので二倍速で部屋は散らかっていく一方であった。よく平気で生活できるなと思っていたが、彼女の生活範囲はベッドの上だけだったので別に困ることもなかったのかもしれない。

大学生になってから、彼女は多少変わった。そりゃあ環境が変われば人間も変わるんだけど、彼女と僕の関係に多少影響のある変化だった。僕は彼女を好きだと言ったとき、彼女が受け入れてくれた理由があまりよくわかっていなかった。僕は人間として魅力のある方ではない。顔がいいわけでもなく、運動が得意なわけでもなく、おしゃれな趣味もなく、友達は死ぬほど少ない。特技といえば勉強しなくてもテストの点はとれるぐらいである。あとお人好しなところだろうか。彼女はその理由を教えてくれた。つまり、当時の高校で、まともに話が通じる程度の脳みその出来だったのが僕ぐらいだったという話だそうだ。地方の進学校を自称しているけど旧帝行くのは10人にも満たない程度で、東大京大に行けるような環境ではなかったので、まあ当然と言えば当然だった。そうして入った某旧帝大には少なくとも高校よりは頭のいい人間がいた。僕はここまで名前の知られている大学でも頭で考える能力のない人ばかりなのに絶望しかけていたが、彼女としては頭のいい人間と接することが増えて別に僕が特別ではなくなったようである。まあ頭の出来はきっかけに過ぎず、それから過ごした時間でお互いよく理解して、お互い好きになっているから、別に問題ではないねという話だった。僕も全くその通りだと思ったが、彼女のその話は建前が多分に含まれていたようである。

高校の時の僕らは、一言で言えば「陰」だった。オタクのコミュニティに身を潜めて、陽の光をなるたけ浴びないように、仲の良い狭い狭いコミュニティで楽しむだけ。最高に楽しくて、幸せだった。

大学に入ってから、彼女は陽気になった気がする。根っから陰気な僕と違って、彼女には陽への憧れみたいなものがあったと思う。けれど、高校までの陽気な人たちと馬が合わなかったからなし崩し的にオタクたちのコミュニティで過ごしていたんだろう。というか、陽気で元気な人たちをずっと見下しているようだった。僕はどちらかというと陽気な人が怖くて嫌いだから結果としては似たような人間に見えていたはずだけど、大学に入ってから1年も経てばはっきりと違いが見えた。

彼女は誰か他の人と遊びに行くことが増えた。居酒屋でバイトして、バイト先の学生や社員とも仲良くしているようだった。僕は相変わらず小さい小さい陰気なコミュニティを探していた。部活とは別にサークルに入って、仲良くなったのはほとんど女の子だった。あまり遊ぶのは躊躇われた。彼女はそういうのを嫌がるタイプだった。男友達はほとんど作らなくて、結局僕が遊ぶのは彼女とだけだった。ずっと変わらず、愛を与えていた。孤独がするりと背中に伝うような感覚に、時々襲われた。

彼女は僕と遊ぶときは昔のままだった。旅行に行って、カラオケに行って。僕は部活にほとんどの時間をかけて、そうでないときはずっと彼女と一緒にいる。彼女は1年半くらいで部活を辞めてちゃんとバイトしてたから遊びに行く回数も多かった。僕はバイトの頻度を増やせなくて、貧乏なりに彼女と遊んでいたけど。彼女は色んな人と飲みに行って、旅行に行って、それこそ学校の女友達と。部活の男の先輩たちと。バイト先のおじさんたちと。

このままでいいのかと、ずっと考えていた。部活は辞めると多大な迷惑をかけるくらいに働きすぎていた。週2の家庭教師のバイトさえ、時間が惜しくて行き帰りの時間は不安でたまらなくなった。夜は遅くなって、時には部室で泊まって、家に帰っても大抵彼女は先に寝ていた。彼女は昼間に不意に連絡してきて、ご飯に誘ってくれたり、遊びに誘ってくれたり。どうしても外せない時以外付き合っていたつもりだけど、部活の仕事量は減らなくて、追い詰められて、連絡をすぐに返さない時も多くなった。電話と通知が鳴り止まなくても取らない時が多くなった。そのストレスについて、誰も相談する相手がいなかった。彼女にはずっと部活を辞めてほしいと言われていたが、打ち込んでいたことを失う虚しさと迷惑をかける人に対する申し訳なさと。そして仲の良い友達までではないにしても人と会って無駄話をできるコミュニティを捨てることはできなかった。彼女は他に友達を作るよう言ってきたけど、どうしても僕にはできなかった。

大学に入ってから彼女を明確に怒らせた記憶が一度ある。確か家の近くの定食屋で、サークルの女友達二人と飯を食っていた。確か、ミーティングついでに飯を食おうという話で、割と真面目な話をしていた。サークルの友達はみんないい子たちで、仕事と孤独に追い詰められつつある自分のいい話し相手になってくれていた。この頃の精神はそのおかげで保っていたと言い切ってもいい。自分の中でとても大切な時間で、途中で彼女から着信があった時、この電話に出たらこの時間を切り上げないといけないと察した。多分、家に帰ってきてほしいとか、どこかに遊びにいくか、夕飯を一緒に食べるか。夕飯はもう食べているので、別に出なくても結果は変わらない。この時間を切り上げたくない。そうぼんやりと思って通話に出なかった。しばらくしてふと窓の外を見ると、彼女がこっちを見ていた。完全に怒っていた。やってしまったと諦めつつ、お金を置いて先に出た。お怒りを宥めるのに半日かかった。結局、残ったのは自己嫌悪だった。

明らかに僕はキャパオーバーだった。部活でできた後輩は、仕事量の多さに1年もたたず辞めていった。後輩ができたら仕事量が減るから我慢してくれという彼女へのお願いは、2年続けて後輩がいなくなるという形で延期され続けた。先輩はとうにいなくて、一人で一つの部門を維持するのは、時間と気力を消費する作業だった。もはや何が正しいかよくわからなかった。彼女の気持ちが離れていくのも無理はないと思っていた。それでも、愛していると伝えたら応えてくれた。僕が彼女を愛する気持ちは変わっていなかった。けれど、彼女の求める愛を与える余裕はもはやなかった。

僕と彼女の恋愛観が大きくずれていることは随分前からわかっていた。一言でいえば、精神的な愛か、物理的な愛か。僕は愛を持っていれば、そして持っていてくれれば、それだけで満たされた。離れていても、会えなくても、相手と繋がっていると、相手も自分のことを考えているとさえわかっていれば、どれだけ忙しくても心の支えになっていた。一方、彼女が求めるのはカタチとしての愛だった。プレゼントやお金ほど即物的な意味ではなく、ハグであり、キスであり、セックスであり、愛してるという言葉であり、一緒にいる時間だった。僕の恋愛は彼女が求めるものを与える愛だったから、僕が忙しくない限りはこの関係を続けられた。それでもずっと非対称なことに変わりはなく、実際にこの関係は僕の時間が削られるにつれて歪んでいった。彼女が僕のことをまだ好きなのかどうか、わからなくなっていた。そんな状態のままするキスは、囁く愛は、セックスは、空っぽでただ彼女を満たすためだけのものになってしまっていた。それでも僕の目的は彼女を幸せにすることだったから、その関係は続いていた。

3年の秋、ないお金と時間を振り絞って行った旅行の帰り、別れを切り出された。僕は受け入れるしかなかった。僕が構わなかったから、自業自得であって。僕は彼女に幸せであってほしいというのが本心だったから。彼女の希望を受け入れる以外の選択肢はない。悲しくて、寂しくて、しかしどこか安心する自分がいた。これ以上彼女の負担になることはない。彼女はもう自由だから。そして、彼女は僕のことを好きじゃないんじゃないかという疑問に答えが出たから。ふと気になって別れ際にひとつだけ尋ねた。他に好きな人ができたかと。そうじゃない、という答えにどこか違和感があった。別れる理由は僕のためだと言っていた。僕が彼女に向ける愛に、彼女が応えられないからと。別に僕は応えてくれなくてもよかった。僕は彼女に好かれたいわけじゃなくて彼女に幸せになってほしいだけだったから。どんな形であれ、彼女が少しでも楽しいと、幸せだと思う選択肢をとってほしいと思っていたから。結局、僕は彼女を送っていって、彼女の部屋の前で最後のハグをした。彼女は泣いていた。

 

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自己紹介の難しさについて

ブログを始めてしまった。自己顕示欲に呆れるけど、ただ書きたいことを書くだけの。

 

自己紹介ができなくて、原稿を用意してある。名前、出身、好きなものは焼肉と寿司、趣味は写真を撮ること。言えば、持ち回りの自己紹介タイムは切り抜けられる。それに、質問をされない。そりゃあそうで、質問をされないように原稿を考えてあるから。想定問答もある。出身を聞かれたら田舎。焼肉と寿司は他人の金で食うならなんでも美味い。撮るものはいろいろ。それ以上質問はされない。よって、考えることはなく、相手に自分のことを極力知られずに自己紹介できる。

 

自己紹介の場で求められるものってなんなんだろうか。仲良くなるためのとっかかり? しかし、こちらにはあなたと仲良くするつもりはないので、僕は自己紹介したくない。

自己紹介のもっと大事な点は、おそらく、その人間が「普通にやれることをやれる人間なのか」を知ることにあるんだろう。つまり、自己紹介で笑わせる人間はそういうものだし、普通の自己紹介をできない人間を炙り出しておくこともできる。全員に喋らせるということはつまりそういうことなんだろう。

結局、吃りやあがり症、周りに合わせる気がない人、周りに合わせられない人を強制的に全員に知らしめる作業。弱い立場の人間に厳しいシステム。

なぜそう言えるのか? それは、自己紹介を問題なく済ませられる人間は放っておいてもその程度の情報はべらべらと喋るから。強い立場の人間に自己紹介は必要ない。コミュ力とか、手垢がついた言葉だけどもコミュ強のために自己紹介は必要ない。

そのコミュニティを回している人間が、弱い立場の人間を知っておくための手法だと考えれば、必ず全員が喋らされるお決まりの自己紹介タイムの存在を理解できる。極めてくだらない慣習である。

 

僕はなんとなく自己紹介で言葉に詰まるのが嫌で、ずっと喋ることを変えていない。幸い吃りぐせはないので、喋る内容を決めておけば違和感なくこなせる。そして、誰の印象にも残らない自己紹介になる。

劣等と謗られるのを嫌って自己を紹介するのは、無意味なのはまあ許せるんだけど、多少卑怯さに自己嫌悪を覚える。

なにが卑怯なのか? 周りに合わせられない人に対して卑怯である。自分のように、無難に済ませたくて、そうできない人を目立たせてしまうから。だから自己紹介タイムは苦手だ。

 

他人のことを知りたいなら、ちゃんと向き合って話しておくれ。仕事の付き合いとか、名前を呼ぶのに不便だからとか、そんな理由でわざわざ全員の前で喋らせることはない。顔と名前とリストにして撒けばいいだけだろう。礼儀とか定番とか言い出すなら、それはもう僕の嫌いな人なのでどうでもいい。

まあなくなりようはないんですけどね、もうここまで定番化してるものはなくならないので、せめてそれでキツい思いをする人がいるかもとか、そういう想像力をもってやるのは必要なんじゃあないかな。