死にたさと呆れ

メンヘラアスペ大学院生がゴミを書き捨てるところ

昔の話6

鬱の話。M1時代。

 

大学院1年の年ははっきり言って地獄だった。何をするにもコロナ。人と会えず、外に出られず、イベントはなくなる。抜け殻のように横になる日々。オンラインになった授業は、そもそも履修登録していなかった。

休学の決断が遅かった。休学届の締切は2月末。その頃は3月まるまる一月休めばマシになるんじゃないかという薄い希望を持っていた。が、鬱はそんなに優しくなかった。無為に休むのはただ自分を追い詰めるだけで、病状は悪化していった。昼間は頭に靄がかかったように思考できず、眠気がひどくてまどろみとニコチンの補給を繰り返す。5-6時間くらいで頭はクリアになっていって、相変わらず身体はだるくて結局横になる。下らないことばかり考える。これからのこと。発達障害のこと。自分の価値。苦しみから逃れる方法。結局、全てが「死にたい」というピュアな逃げに収束する。苦しみと不安から解放される手段。実行した瞬間に確実に効果を発揮する手段。死は、特効薬であり救いであり。追い詰められた結果の唯一の権利であり。だが、結局理性はそれを許さなかった。これからの可能性が失われる恐怖。周りの人間に与える痛み。それを握りつぶして死ねるほど、僕は強くなかった。結局、逃げることからも逃げたのだ。

僕の理性が恐れていたのは、うっかり自分が死んでしまうことだった。これは、この時飲んでいた睡眠薬があまり合わなくて健忘や異常行動が出ることがあったのが大きい。飲んでから寝るまでの1時間くらい、自制心が外れる上にたまに記憶が飛ぶことがあって、家の前の車道で撥ねられようとしたり、日本酒の四合瓶を一気に飲んで盛大にゲロ吐いたり、ベランダの手すりに座って落ちたい衝動と戦ったり、半袖を着れなくなるからと自制していた手首を切っていたり、顔や首を切って布団が血だらけになっていたり、もう散々だったのである。幸い大ごとにはならなかったが、このとき予想外のことがもう一つ起こった。知らないうちに両親に鬱で通院しているとカミングアウトしていたのである。朝起きたら意味不明な返信を見て夢かと思ったのだが、いずれ言わなければいけないことなので鬱のことは説明した。発達障害の話は出さなかった寝る前の自分には感謝である。既に6月、全く大学に行っていなくて学費が余分にかかる話をした。本当に、無駄なことをした。

救いを求めていた。人と会わないことが鬱になった直接の原因だとわかっていたので、人と会って、話したかった。コロナは最悪の巡り合わせだった。大学も行っていない間、話す相手といえば二週に一回の診察で話すドクターぐらいで、久しぶりに口を開くものだから、まともに話せない時すらあった。流石に凄い勢いでメンタルが落下していくので、縋る思いでとある高校生の頃の友人に連絡した。社会人一年目で忙しかったであろうに、僕のくだらない話に付き合ってくれた。あまりにも大変そうなものだから遠慮して会う頻度は数ヶ月に一度くらいのものだったけど、定期的に人と話せて、たまに会えるというのは限りない救いだった。お互いカラオケが好きだったし、僕は彼女が歌うのを聴くのが好きだった。曲の守備範囲が近いし、歌が不思議なくらいうまかった。久しぶりに会った日、カラオケの後、ドトールで少し話すつもりだった。話し始めたら流れ出すように弱音を吐き続けてしまって、気づいたらアイスコーヒーの氷は全部溶けて、僕は半泣きになっていた。彼女はずっと聞くだけで、否定も肯定もしなかった。話すのを躊躇っていたアスペルガーの話もした。やはり、否定も肯定もせず、僕のいうことをただ黙って聞いていてくれた。それは間違いなく無上の救いで、会話はキャッチボールだと言うけれど、投げ返されても受け取る元気がない時は、受け止めてもらえるだけで幸せだと知った。今まで意識して人に見せなかった弱い部分を、止めどなく曝け出した僕を彼女はどう思っただろうか。何を思っていたにせよ、表に出さないというのは素直にできるものではないだろう。掛け値なく、彼女の存在は生きる支えになっていた。

彼女は、高校生の頃に入っていた部活動の、数少ない同期の一人だった。控え目だけど察しのいい子で、部活動をやっていく上で隠していこうと決めていた恋人との関係を割と早いうちに看破られていた。それでも干渉も非難もせず、それまで通りに接してくれて、部活動という極めて小さなコミュニティを壊さないでいてくれた。それもまた、僕にとっては大きな救いだった。恋人と同じくらい、その関係は僕にとって大切だったのだ。僕は、自分に対する義務として大切にしていた恋人より、彼女の方によほど惹かれていた。恋人と情緒不安定な関係を続ける中で、彼女は間違いなく僕の救いになっていた。不誠実と謗られるかもしれないが、自分の中で割り切りはできていた。たとえ僕の好きな人が誰であっても、恋人とずっと一緒にいて、幸せにすることは決定事項だったのだ。

このころ、FF14をはじめた。ゲームすら出来なかった頃に比べたらマシになったといえるのかもしれないが、良くなっているという実感は薄かった。ゲームを止めれば求めていない思考が頭を支配し始めるから、起きてから眠さの限界になるまで止めない。今更ではあったが、生活リズムは崩壊していた。眠るために止めるのではなく、眠くなった時に止めるのだから、毎日起きる時間帯が変わっていく。追われるように日々を過ごして、ぼんやりする時間を作らないことで自衛する。究極に落ち込む頻度は減った記憶があるが、精神はだんだん擦り切れていくようだった。楽しくてやってるのか、よくわからなかった。それでも一種の救いになっていたのは間違いないだろう。一ヶ月200時間くらいのペースでプレイ時間だけ積み重なっていって、楽しさと虚しさを感じながらプレイしていたと思う。

気紛れにピアスを開けた。何故かと問われれば難しいが……。何もしない日々は閉塞感に満ちていて、どうしようもない自分に価値が見出せなくて、せめて自分を少しでも好きになれるようにしたい、というところが根っこの動機だっただろうか。一個開けたら次も開けたくなって、結局片耳10個ずつぐらい穴自体は開けた(あまり気に入らなくて閉じたのもある)。自傷の代償行為のように思えなくもないのに、そうとは捉えられないのが面白かった。自分を飾り立てるようで楽しい。ずっと自分の顔面も見た目も中身も好きではなかったが、少なくとも外見だけは好きなように弄っていけばいいのだと気付いた。バイトは男はピアス禁止という時代錯誤なルールがあったので辞めた。だらだらしていても金が出るいいバイトだったが客を含めてストレスにしかならなかったので清々した。バイトを辞めてからは髪も染められるようになったので、紫にしたり、ピンクにしたり。奇異の目で見られるのはわかっていたし、どうでもよかった。似合う似合わない以前に、自分が好きな格好をすればいいのだ。相変わらず死にたい気持ちは頻繁に頭の中に滑り込んで来たが、自分なりに自分を認めてやることは鬱に対して悪いことではなかったはずだ。

一年をかけて、大きく見れば回復傾向にあったはずである。後期は休学して、大学に行っていない期間は丸一年。想像以上に長く、しかし、終わってみると何の記憶もない、不思議な一年になった。死にたい気持ちは、自分を認められない気持ちは、何とか抑える術を覚えたようだった。4月から大学に戻ることにした。一年遅れは、色々な面で自分の許容範囲上限いっぱいだった。1年ぶりに人間の生活に戻らなければいけない。僕はまだ鬱を克服したわけではなかったし、発達障害の件もなにも解決していないけど、復学して人間らしく授業を受けて研究をする元気はあると感じていた。指導教員も理解のある人だったのでかなり慎重に扱ってくれた。鬱から抜け出す道筋が見えたようであった。

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