死にたさと呆れ

メンヘラアスペ大学院生がゴミを書き捨てるところ

消えゆく喫煙描写

書き古されたテーマだが思うことがあったので書き捨てておきたい。

まずゲームならCEROに代表される表現規制は必要から生まれたもので、それ自体の善悪を論ずることに意味はない。表現規制の基準が決まっていることで、その枠組みの中で表現をこねくり回せる。規制がなければ、各々が自分の判断で表現した結果、余計な衝突と問題を生んでじゃあ全部だめにしましょう、という流れになるので先に基準を作っておくのは大事だ。要は、こういう基準でやってます、という建前があれば矛先は作品自体ではなく基準に向けることができる(それだけで済ませたくない人もいるようだが……)。

次に、表現規制の必要性というのはどこから出てくるのか? 古いトラウマとして「若きウェルテルの悩み」があるのではないかと思う。二百年以上昔の書籍だが、苦悩と自殺を描いた作品が人気になるとそれを模倣して自殺する人が増えるというやつである。今でも有名人の自殺報道に対して後追いで自殺者数が増える現象を指すウェルテル効果に名前を残している。

この現象に対する反応は真に感情的なものであろう。何しろ近親者を失った原因が同じ作品・報道に向くのである。すべての人ではなくても自殺表現を規制するべきという声が殺到するのは想像に難くない。感情的というのは別に馬鹿にしているわけではなく、人間を最も強く動かしうるのは感情であるから、それは激烈な動きである。

さて、この動きに対して一つの回答として表現規制という形がある。要は見せなければよいということで、場合によっては年齢規制が入ることも多い。これは、単一の作品に影響を受けて自殺などの行動に移すのは若年者が多いということに起因する。海外のゲームレーティング(ESRB)の最上位レーティング(日本でいう18禁)がMatureのMであることからも推察できるように、成熟した人間ならその程度のことは自分で判断してください、逆に言えば未成熟な人間に与える情報・表現は規制しましょうということである。これに関しては今回の論点ではないし特に議論になっているわけでもないので紹介するに留める。

真に議論の対象になっているのは全年齢対象の表現であって、喫煙描写についてもこちらが問題になる。自殺描写や暴力描写と同じように、若年者に害を与えるだろうという話である。

害を与えるかどうかでいえばそれは当然害である。特に未成年者にとっては早期喫煙の害・法律に抵触する害……基本的に未成年者には自分の行動を律する能力がまだないと考えた方がよいので、それを本人や保護者の責任に帰するのは無意味である。

論点は、例えば映像作品や娯楽作品の喫煙描写を減らすことの影響で、これをメリット・デメリット含めて議論がされつくされているのかは疑問である。当然、規制によって若年者に与える直接的な害は減る。大きなメリットだし、規制団体の方々としてはメリットしかないように見えるのかもしれない。

一方、表現の幅が狭くなることのデメリットとは何だろうか。喫煙描写を例にとれば、使い古された表現といえるほど一般的な小道具である紙巻たばこ、葉巻、キセル、嗅ぎたばこ、それら全てが全年齢対象の作品という括りで規制されるのは衝撃的である。大きな議論を呼んだ(らしい)「風立ちぬ」の例を挙げるまでもなく、喫煙を通して登場人物の心情、性格、弱さを表現するのは良く使われる手法だし、何より本当にそのような人がごまんといるからこそそういう表現が生まれる。代替しろという主張はそのあたりの事情から無理があるのがわかる。喫煙なしでは表現できない人間がいるし、なんなら自分を表現する映像作品を作れと言われたら喫煙描写は外せない。つまり、全年齢作品だからと言って無難で眼触りの良い作品にまとめてしまうのは、果たして若年者にとっていいことなのか、という話である。

子供と大人の境界はどこにあるか? 少し考えたらわかるように、明確な境界を引くことはできなくて、もちろん年齢で線引きするのも無意味である。ここから、子供に見せてはいけない表現という言葉にも意味がないことがわかる。子供を定義することができないからである。

僕は子供のころよく本を読んだ。雑食だったので児童文学からポルノ寸前の小説まで中学生くらいには読み漁っていた。当然喫煙描写はありふれていたし、小説を読む人なら性描写もしっかりあるのを理解できると思う。では、それを小中学生が読むのは悪いことだろうか? 結局情操の育て方は人それぞれなわけで、僕にとって別にそれは早くなかった。喫煙者のやるせなさとか、感情を暴力という形で表現する人とか、愛がセックスとして形になることとか、それを踏まえて人間がどう振る舞うか、人間として成熟するためには知らなければならない。

喫煙描写に限らず、表現規制全体が抱える矛盾、それも対象年齢という極めて重要な点についての矛盾をここに感じる。Matureでない人に向ける表現を規制するというロジックは理解できる。しかし、青少年を成熟させるのは結局大人向けの表現なのではないか。18歳まで若年者向けのコンテンツにしかアクセスできなくして、18歳になったら全部開放してやる、という方法で何かを制御できると思うのは思い上がりだし子供に対して失礼だ。規制があっても子供は何とかして見ようとするし、その経験を通して成熟していくものである。高校時代にプレイしたAIRや車輪の国、さよならを教えてなど、大きな影響を受けたエロゲを挙げていけばきりがない。それらは性描写を含めて18歳未満に見せるべきではないかといえば、どうもそうは感じられない(法規制とかとは別の話で)。エロゲはエロゲとして受け入れられる市場があるからこそできる表現があるわけで、その価値は未成年であっても享受する選択肢があってもいいと感じる。

結局、表現は多様であることに価値があるわけで、喫煙や自殺に限らず、飲酒、性描写、暴力、犯罪は知らずに生きていけるものではないし、それは10代も含まれる。大人になってから知ってください、というものではない。もちろん全ての世代が全てのコンテンツにアクセスできていいという訳でもないが……子供だからという理由で紛い物を見せていいということでもない。もう一つ、子供の周りに情報が氾濫しているという事情も忘れてはならない。自分から欲しいコンテンツを探す時代は終わり、取捨選択が必要な時代になって、旧弊な考え方は通用しない。これは規制の推進派、反対派両方にいえることで、彼らが育ってきた時代とは違うのだから違った規制が必要になるという認識がなければならない。Youtubeやweb全体という巨大なコンテンツに無数の表現が転がっている以上、それぞれにOK、NGを下すのは不可能だ。規制に反対する立場も、スマホ一つでアクセスできる情報が一昔前と全く違うことを自覚した上でモノを言わなければならない。とかくテクノロジーにおいて老いた頭ほど邪魔なものはない。

ではどういう形に落ち着けるのがいいのか……。少なくとも、万人向けではないと思われる表現にはアクセスするためにワンクッション挟む必要がある、ということには同意である。例えば、広告やYoutube動画はあらゆる世代が直接アクセスする表現なわけで、このあたりの規制が厳しいのは受け入れる必要があると思われる。Youtubeに関しては年齢制限が入ったりして基準に対して議論があったりするが、できるだけ制限する範囲を狭くしてもらえたらな、というのが正直な気持ちである。中高生の頃にインターネットの海に溺れていた経験から、18歳にならない頃というのは一番新しいものに飢えて感受性が成長する時期だと思うからで、その時期にアクセスできる情報が制限されているというのはかなり苦痛である。昔の年齢認証なんて簡単に誤魔化せたわけで、多少ややこしい手順を踏ませる必要があればそれがワンクッションになる……とも思う。公式にそれを許すことはできないけど、保護者層や規制団体から厳しくしろと要望が飛ばなければある程度はグレーに留まってくれないだろうか。

全年齢向けの映画やドラマをどこまで規制するか、という話に戻ってくる。個人的には今より厳しくするべきではないと感じるし、多少緩めた方がいいだろうなとも思う。既に喫煙シーンは駆逐されようとしているし、犯罪、性描写、飲酒など放置しておけば厳しくなっていく一方だろう。喫煙ばかりが取り沙汰されているのが不思議なくらいである。結局それはどこの規制団体が影響力を持っているかの違いであって、立ち止まって抗わなければなあなあで厳しくなるのは目に見えている。果たしてそれが本当に若年者のためなのか? タバコ憎し、表現の幅への興味のなさは表現の衰退とか若年者の情操の未発達という形でしわ寄せがいってしまうのではないかと柄にもなく心配するのである。