死にたさと呆れ

メンヘラアスペ大学院生がゴミを書き捨てるところ

昔の話3

鬱になった経緯。やっとメンヘラっぽくなってきそうな予感がする。院試とアスペルガーの話。

 

彼女と別れて独りになったのは3年の秋。僕の学部は院進率8割ぐらいで、ご多分に漏れず僕も院進を考えていた。比較的専攻替えや外部生も入ってくる人気の専攻で、ちゃんと院試勉強しないと落とされるし、そもそも授業をちゃんと受ける余裕もなかったので一からの勉強になる。試験は得意な方だが時間をかけないといけないのはわかっていた。

相変わらず部活はやってたので、院試勉強に専念できるのは6月中旬から2か月。それなりに密度を高くしてやる必要がある。大体の人は研究室のB4たちで協力して勉強するようだが、会って二か月、大して仲良くもなく、そもそも苦手なタイプの人間と一緒に勉強する気も起きなかった。

つまりどういうことか。彼女のいなくなった自室でひたすら一人で勉強することになったのである。やり始めは特に意識することもなかったが、2-3週間で異変が現れた。夜になると気分が落ち込んできて集中できない。眠ろうとしても良くない考えが頭の中をぐるぐるして眠れない。この症状は試験勉強中には致命的だった。概ね10時間前後は勉強時間に充てていたが、眠りにつくはずの時間から実際に眠れるまで、2時間かかるようになり、4時間かかるようになり、さらに睡眠も浅く、早く起きるようになっていった。症状を感じてから10日程度で、机に向かえる時間は2時間に満たなくなっていた。目が覚めても眠気が酷くて起き出せず、起きて飯食って机に向かうと既に体が眠りを欲している。気持ち程度の勉強をして横になっても、眠いだけで眠りにつけることはなく、考えたくないことばかり考えてしまう。結局、起きている時間のほとんどはベッドの上で悶々とする時間になっていった。

こうなった原因には心当たりがあった。彼女と別れてからしばらくして、4月ごろだっただろうか。何の気無しにアスペルガー障害(ASD)のWikipedia のページを見ていた。あまり知らない分野のWikipediaを漁って広く浅い知識を付けるのが好きなのである。そこで、代表的な症状に自分が当てはまりすぎていることにはたと気づいた。

"社会的コミュニケーションの困難" まさに彼女に指摘されていたことで、他人の情緒を理解できない。冗談を理解できず、聞き返して場を白けさせることも多かった。人の目を見て話せず、矯正しようとされたが治らなかった。相互のコミュニケーションができず、話を延々と聞くかこちらから延々と話すかが基本になってしまう。話していると自分の思いつくままに話を展開させて話が飛んだように思われる(これはものを書く時でも同じで、多分この文章の読みにくさはその辺りに原因がある)。場の雰囲気に合わせられず自分の振る舞いに固執し、結果場から浮いてしまう。結局、ほとんど友達ができず、そもそも友達付き合いで苦痛な経験をしすぎたためにもはや新しく作る努力もしなくなっていた。

"狭い興味と反復行動" アスペルガーといえば、という印象を持つ人もいると思うが、ご多分に漏れずそのケがあった。特に幼少期、世界の国旗と国名、首都の暗記に始まり、難読漢字に凝っていた時期、中学の頃は有機化学の構造式を授業をよそにノートに埋め尽くしたり、とにかく「凝る」対象を見つけるとそれ以外を放置して熱中する傾向にあった。が、この傾向は中学くらいでなくなりつつあり、むしろ世間一般の流行に対する拒否感、自分の興味をより尊ぶという価値観に収斂したといえそうである。

"社会不適応" これはアルバイトで嫌というほど思い知らされた。同時並行のタスクがあると途端にミスが増えること、何度指摘されても同じミスをすること、曖昧な指示に対して細かく聞き返さないと何をしていいか理解できないこと、慣れたはずの作業でミスが多いこと、うっかり忘れが多すぎること、急に指示される事や変更があるとあらゆる業務がギクシャクしてミスを多発すること。挙げ始めるとキリがないが、結局店長に溜息混じりで「君、ミス多いね」と言われる羽目になる。学歴はそこそこの割に、と言外に言われているようで余計に落ち込むことになった。

"感覚過敏" アスペルガーのイメージとしてあまりない症状だったが心当たりが多すぎて驚いた。まず僕は歩き方と走り方が変らしい。卓球をやっていた時も、ただ腕を前に出す動作で手首がビクンと動いてしまって精度が出なくなる。居酒屋の話し声や有線放送の音が苦手で耳を塞いで逃げ出したい衝動に駆られる。客ならイヤホンすればいいのだが、居酒屋でバイトしていた時は結局それに耐えられなくて辞めた。些細なことを覚えすぎて、脳を一瞬の不快な経験に支配されるような感覚。全部アスペルガーの特徴だと。

 

正直、安心している自分がいた。自分がその他大勢と違いすぎること、何故か他人のように上手くできないこと、楽になんとなく生きていけないことにずっと疑問を抱えてきたからだ。その答えを提示されたようで、友達ができないのはお前の努力不足ではないと言われたようで、ある意味の救いを与えられたような気持ちになった。要は逃げ道を与えられたのである。

しかし、それを上回る恐怖もまた押し寄せる。アスペルガーは治らない。少なくとも薬で誤魔化すことはできない。今まで人付き合いを楽にやっていく方法とか、バイトでミスしない努力とか、運動する時不器用なのを直すとか、そういったことが全て失敗してきたのが当然だったと突きつけられたのである。しかも、それを根本的に解決する方法はないと、生まれつきの障害としてこれからの人生で背負っていかなければいけないと、理解してしまったのである。

最も受け入れがたかったことがある。僕は小学生くらいの頃から周りから浮いていて、虐められたこともあったが、基本的には多数派の人間とうまく距離を置いて立ち回ってこれていた。友達は少なく、興味も世間とはズレていて、しかし頭が悪くなかったために周りから攻撃されることは少なかった。基本的には「勉強してないけど成績は上から何人かのうちにいる変わった人間」と認識されていたと思う。多数派はそういう人間に関わろうとしない。虐めようともあまり思わないのである。翻って、僕は自分のことをどう思っていたか。そのような「浮いているけど排除もされない」立場になると、自然と「自分は多少変わっているが、そうであることを選択している」と考えるようになっていく。つまり、友達は作れないわけではなく作らない。多数派の興味の対象にはあえて興味を向けない。これは虚勢や強がりではなくて常識的に考えた結果だった。なぜなら「他の人間と同じ種の自分にはそのような機能は備わっているはず」だと考えるのが自然だからである。その前提と自分の特異さを考慮すれば、自分はそう選択している、と考えるのが自然だし、実際そのように受け入れていたのだと思う。思う、というのはそのような考えを無意識に持っていたことを、それが「選択」でなく「機能不全」だと突きつけられる形で崩された時に初めて気付いたからである。今までの人生、物心ついてから10年余りで醸成されたその無意識が、間違いだったと知ることは衝撃で、受け入れがたかった。有り体に言えば、自分が欠陥品であることを、受け入れるのは難しいものである。特に、そうだと露ほども考えなかった人間にとっては。

 

話を戻そう。鬱の症状が出始めたのは、おそらく自分がアスペルガー障害であるという可能性について知ってしまった時、たまたま相談できる人を失っていて、たまたま院試勉強という一人でいる時期であったことが重なってのことだったのであろう。症状は加速度的に悪くなっていった。睡眠障害だけでなく、ベッドで自分の生きる価値について悩む時間が増えていった。だが、鬱がひどくなっていっても、冷静な思考を維持することは、少なくとも1日のうち幾らかの時間は、続けられていた。このまま放置すれば院試に落ちる。とりあえず精神科に行って睡眠薬だけ出してもらおう。気分を何とかするのは院試が終わってからでいい。精神科に初めていくのには誰だって抵抗があるだろうし、それが一人で、自分の意思でいかなければいけないというのはなかなか難儀だった。ともあれ、雑に話して睡眠薬だけ貰ってきた。救いになるとか期待もしていなかったが、アッサリ鬱ですかね、と言って自分が求めた通りに眠剤が出てくるのは少し面白かった。素人の、患者のことを鵜呑みにするしかないというのは、なかなか難しいんだろうな。

薬は劇的には効かなかった。それでも眠りに落ちるまでの時間を短くして、眠りすぎるほど眠って、昼間に眠気が残るのは有り難くなかったけど、勉強時間を伸ばせるのはありがたかった。それでも、4-5時間ぐらいが限度だったように思う。起きてしばらくは眠気がぶり返してきて机に向かうどころではなかった。しばらく集中していると、アスペルガーのこととか、鬱のこととか、自分の価値のこととか、勉強不足で院試に落ちることとか、不安と辛さがするりと滑り込んできてもう勉強どころではなくなるのだった。そうなったらさっさと眠剤飲んで寝ようとするけど、起きてから半日も経たずに寝られるはずもなかった。結局好きでもない酒を飲めるだけ飲んで、吐いて最悪の気分のまま意識を手放して眠るようになった。吐くまで飲んでも眠れない時は寝られるまで眠剤を追加した。1週間分の錠剤はすぐなくなって、結局薬がなくなってからの3日くらいは勉強なんて手につかなかった。もう、自分が自棄になって自殺しないように労ってやることで精一杯になっていた。久しぶりに、死にたいと思うようになった。

クリニックで薬を増やしてもらった。最大量で安定して眠れるようになった。気分は毎夜落ち込んで、救いに飢えていた。数少ない、気を許せる友達と、話したかった。けれど大体みんな忙しくて、急に声を掛けるのが申し訳なくて、掛けたとしても返事が来るわけでもなくて、一人で暗い部屋で茫然と死にたくなる時間だけが積み重なっていった。気を紛らわせたくて初めて煙草を吸った。少し気持ちが落ち着いて、すぐにやめられなくなっていった。

院試まで時間はなかった。今までの教科書中心のやり方では間に合わないと判断して、過去問中心に切り替えた。残り1週間ぐらいで、また気分の落ち込みの波が来た。もう院試なんてどうでもよくなりつつあつた。ただ自分のどうしようもなさにどうしようもなく死にたくなって、昼間は自分がうっかり死なないようにできるだけ精神を安定させることに精一杯だった。院試まで3日を残してマシになった。3日で3年分過去問をやって、試験前日の夜はさっさと寝た。試験中に眠気が来たら終わりなのはよく知っていた。滑り止めとか考える余裕もなかったから、失敗したら終わりだった。二日かけて筆記試験があって、1日明けた日が面接日だった。別に失敗はしなかった。試験が得意な方でよかったな、とぼんやり思った気がする。面接の直後に結果は教えてもらえた。真ん中ちょい上で通ったらしい。

とりあえず一息ついて帰って寝ようとした。一件落着した気持ちになって、しばらく休みたかった。院試が終わって、鬱も不眠も良くなるんじゃないだろうかと、漠然と思っていた気がする。

その日の夜は、変わらず死にたくなって、眠れなくなって、睡眠薬を飲んで寝た。次の日も、次の日も、何も良くならなかった。相変わらず死にたくてたまらなくて、昼間は自分が何かの拍子に自殺しないか、不安で押し潰されそうになっていた。僕の鬱はまだ始まりの始まりだった。

 

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