死にたさと呆れ

メンヘラアスペ大学院生がゴミを書き捨てるところ

自己紹介の難しさについて

ブログを始めてしまった。自己顕示欲に呆れるけど、ただ書きたいことを書くだけの。

 

自己紹介ができなくて、原稿を用意してある。名前、出身、好きなものは焼肉と寿司、趣味は写真を撮ること。言えば、持ち回りの自己紹介タイムは切り抜けられる。それに、質問をされない。そりゃあそうで、質問をされないように原稿を考えてあるから。想定問答もある。出身を聞かれたら田舎。焼肉と寿司は他人の金で食うならなんでも美味い。撮るものはいろいろ。それ以上質問はされない。よって、考えることはなく、相手に自分のことを極力知られずに自己紹介できる。

 

自己紹介の場で求められるものってなんなんだろうか。仲良くなるためのとっかかり? しかし、こちらにはあなたと仲良くするつもりはないので、僕は自己紹介したくない。

自己紹介のもっと大事な点は、おそらく、その人間が「普通にやれることをやれる人間なのか」を知ることにあるんだろう。つまり、自己紹介で笑わせる人間はそういうものだし、普通の自己紹介をできない人間を炙り出しておくこともできる。全員に喋らせるということはつまりそういうことなんだろう。

結局、吃りやあがり症、周りに合わせる気がない人、周りに合わせられない人を強制的に全員に知らしめる作業。弱い立場の人間に厳しいシステム。

なぜそう言えるのか? それは、自己紹介を問題なく済ませられる人間は放っておいてもその程度の情報はべらべらと喋るから。強い立場の人間に自己紹介は必要ない。コミュ力とか、手垢がついた言葉だけどもコミュ強のために自己紹介は必要ない。

そのコミュニティを回している人間が、弱い立場の人間を知っておくための手法だと考えれば、必ず全員が喋らされるお決まりの自己紹介タイムの存在を理解できる。極めてくだらない慣習である。

 

僕はなんとなく自己紹介で言葉に詰まるのが嫌で、ずっと喋ることを変えていない。幸い吃りぐせはないので、喋る内容を決めておけば違和感なくこなせる。そして、誰の印象にも残らない自己紹介になる。

劣等と謗られるのを嫌って自己を紹介するのは、無意味なのはまあ許せるんだけど、多少卑怯さに自己嫌悪を覚える。

なにが卑怯なのか? 周りに合わせられない人に対して卑怯である。自分のように、無難に済ませたくて、そうできない人を目立たせてしまうから。だから自己紹介タイムは苦手だ。

 

他人のことを知りたいなら、ちゃんと向き合って話しておくれ。仕事の付き合いとか、名前を呼ぶのに不便だからとか、そんな理由でわざわざ全員の前で喋らせることはない。顔と名前とリストにして撒けばいいだけだろう。礼儀とか定番とか言い出すなら、それはもう僕の嫌いな人なのでどうでもいい。

まあなくなりようはないんですけどね、もうここまで定番化してるものはなくならないので、せめてそれでキツい思いをする人がいるかもとか、そういう想像力をもってやるのは必要なんじゃあないかな。